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広瀬武夫の話::  
 広瀬武夫とは日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫中佐のこと。昨年、坂の上の雲に登場したこともあり、広瀬武夫が見直されている。今年は武夫の誕生の地である竹田でフォーラムが開かれている。10月にも行われる予定になっている。私は父・六蔵が広瀬武夫と従兄弟同士ということもあり、関心を持って見守っている。そして広瀬武夫についていろいろと書いていこうと思っています。 2010.05.02 衛藤正徳(記)  
 
広瀬武夫中佐の歴史>>広瀬武夫年表  
 
人間・広瀬武夫中佐論
―軍人と文人のはざまで―

目次

1.はじめに・・・広瀬武夫誕生(1868年5月27日)・・・掲載中
2.子供時代・・・1〜7歳(1869〜1875).・・・掲載中
3.小学校時代・・・8〜12歳(1876〜1880) ・・・掲載中
4.代用教員時代・・・12〜14歳(1880〜1882)・・・掲載中
5.中学校時代・・・15〜17歳(1883〜1885)・・・掲載中
6.兵学校時代・・・18〜21歳(1885〜1889)・・・掲載中
7.海軍時代その1(遠洋航海)・・・21〜26歳(1889〜1894)・・・掲載中
8.海軍時代その2(日清戦争)・・・26〜29歳(1894〜1897)・・・掲載中(2010.12.22.修正
9.海軍時代その3(ロシア留学)・・・30〜30歳(1897〜1898)・・・掲載中
10.海軍時代その4ロ(シア駐在)・・・30〜34歳(1898〜1904)・・・掲載中
11.海軍時代その5(日露戦争)・・・34〜36歳(1902〜1904)・・・掲載中(2011.08.20.修正
12.おわりに・・・掲載中
 
 
1.はじめに  
   
 

広瀬武夫中佐と私の父・六蔵の関係から始める。父・六蔵(1903年(明治36年)5月生まれ)は広瀬武夫中佐(1868年(明治元年)5月生まれ、)の従兄弟になる。広瀬武夫中佐の父・広瀬重武と六蔵の父・衛藤敦夫が兄弟である。すなわち、衛藤敦夫は広瀬武夫中佐の叔父にあたる。私の父・六蔵は衛藤敦夫の6男で8人兄弟の末子として生まれた。広瀬武夫中佐(1904年(明治37年)3月戦死)が亡くなる10ヶ月前である。

 広瀬武夫中佐のことは、子供の頃竹田に遊び行った時におじの佐藤次比古やおばの衛藤千代に連れられて、広瀬武夫中佐のお墓参りをしたことや佐藤次比古に広瀬神社でお祓いをしてもらったことはあるが、父・六蔵から詳しい話を聞いた記憶はなく、またおじ達(佐藤次比古、池田三比古、矢野四郎、衛藤五郎)やおば達(衛藤千代、加藤八千代)からも広瀬武夫中佐について詳しい話を聞いた記憶はない。最近まで広瀬武夫中佐についてあまり強く意識したことはなかった。

先日、広瀬武夫中佐に興味をもって10年以上調べている土原ゆうきさんという方が尋ねてきた。ホームページのサイト(月にむら雲花に風)で中佐の経歴や訪れた関連の史跡を紹介している方である。私のホームページで広瀬武夫中佐と私の父やその兄弟・姉妹が従兄弟ということを知り、広瀬武夫中佐について話を聞きたいということであった。
 土原ゆうきさんからはたくさんの広瀬武夫中佐に関する情報・資料・文献をいただき、私からは私が持っている書簡2通をお見せし、コピーを差し上げた。これらの書簡は広瀬武夫全集には未収録のものだということであった。
 また、竹田在住の知人の阿南福登さんからも、広瀬武夫中佐に関する最初の書籍である「軍神広瀬中佐詳伝」を頂いた。
 さらに、竹田出身の高崎林治さんと春山さんも広瀬武夫中佐の話で訪ねて来られた。お二人からも沢山の資料を頂いた。 
 

 いままでに公開されている資料だけでなく未収録の資料も参考に、広瀬武夫中佐が生きた明治の時代を歴史的に考察し、広瀬武夫中佐と同時代に生きた明治の群像、たとえば秋山真之や夏目漱石らの考え方や生き方を背景に描き、広瀬武夫中佐の考え方と生き方を明らかにすることを試み、私なりの「人間・広瀬武夫中佐論」を書いて見ようと思う。

 
 
2.子供時代・・・07歳(18681875/明治18
 
 広瀬武夫の06歳くらいの子供時代のことを書く。1868年〜1874年(明治元年〜7年)のことである。明治政府が成立し、日本が新しい方向に向かって動き始めた時代である。1868年に明治と改元され、江戸が東京となった。明治維新である。1869年に版籍奉還が行われ、1871年に廃藩置県が行われた。そして殖産興業・富国強兵策が推し進められた。また徴兵令と地租改正条例が発布されている。

 広瀬武夫は1868年(明治元年)5月に現在の大分県竹田市に父は重武と母登久子の間に生まれた。生まれてから10年間を竹田で過ごした。この間、4歳のときに弟・潔夫、6歳のときに妹・登代子が生まれている。武夫は1876年(明治9年)の8歳のときに竹田小学校に入学したことになっている。
1875年(明治8年)に学齢を満6歳から14歳の8年間とすることが定められたことと関係があるのではないかと思う。

小学校に入学する前(56歳)はどのような子だったのだろうか?現代なら幼稚園に通う年代である。広瀬中佐詳伝によれば、「幼児より泣き虫といわれた」とある。いたずらっ子というより感受性豊かな優しい子供だったようだ。このころの教育は祖母でなく、もっぱら母がしていたのではないか?

ところで、明治元年前後には、海軍軍人秋山真之、俳句の正岡子規、文豪といわれる夏目漱石などの明治で活躍した群像がうまれている。秋山真之は夏目漱石の「坊ちゃん」で有名な現在の愛媛県松山市で18684月にうまれた。また俳句の正岡子規も秋山真之と同じ松山で同じ年に生まれた。そして子供時代をここで過ごした。秋山真之と正岡子規は同郷で幼馴染で竹馬の友である。

また文豪といわれる夏目漱石は正岡子規の生まれる一年前の1867年に現在の東京都新宿区喜久井町で生まれた。ここで子供時代を過ごしている。1874年(明治7年)に小学校に入学した。小学校を卒業するのは1879年(明治12年)である。この間、養子に出され、天然痘にかかり、かなり大変な状況にあったようである。

私は当時、目黒区の平町というところに住んでいた。小学校に入る前に幼稚園に1年間通った。幼稚園で何を勉強したかは覚えていない。当時は近くにまだ畑があり、ギンヤンマのようなトンボをおいかけていたのを覚えている。振り返って、自分の子供時代を考えると、自由な空気があふれ、珈琲の香りに包まれ、伸び伸びとした生活をしていたように思う。時代の差を思わずにはいられない。この事は小学校時代にも当てはまる。

3.小学校時代・・・812歳(187618810/明治813
 

 1874年(明治7年)〜1879[明治12]は、板垣退助らが民選議院設立の意見書を出し、自由民権運動が始まったころである。同時に、明治政府はその支配を強め始めた。1876年に不平士族の反乱が相次ぎ、1877年(明治10年)に西南戦争が起きている。1878年に参謀本部が設置され、統帥権の独立が行われている。1879年(明治12年)に琉球を沖縄県としている。またこのころに朝日、読売などの新聞が創刊され、新島襄の同志社や東京大学などの大学が設立されている。

 前節にかいたように、広瀬武夫は生まれてから10年間を竹田で過ごした。幼児期の武夫は健康な体でしたが、温順な性格で泣き虫であった。しかし年を取るに従い、強い性格に変わっていった。武夫は1876年(明治9年)の8歳のときに竹田小学校に入学し、飛騨高山に移る10歳(小学校3年生)のときまで在学した。この頃、水泳したり、竹馬合戦をしたり、相撲をしたりして良く遊んだようだ。とくに水泳は河童小僧と呼ばれるくらい得意だったようだ。竹田には稲葉川という大きい川が流れている。たぶんその川だろうと思う。広瀬武夫の従兄弟にあたる私の父も水泳を得意としていたが、その川でよく泳いでいたといっていた。遊びながら竹田の人情と風景を体に染み込ませたに違いない。

広瀬武夫が9歳の1876年(明治9年)の10月に、兄・勝比古が攻玉社に入塾し、18799月に海軍兵学校へ入学した。後年、武夫も同じ道を歩む。武夫は母・登久子を7歳(18754月)のときに亡くし、その後祖母智満子に厳しく育てられた。武夫は祖母から単なる勉強だけでなく、人間教育を受けた。母をなくしてからは祖母や弟妹のことを気遣うようになった。遊んでいて口論となり、喧嘩をしたときでも弟妹を巻き添えにしないように、一人で相手に立ち向かった。母の死は彼の考え方に大きい影響を与えたと思われる。ところでどのような食べ物を食べたのだろうか?だんご汁は食べただろう。どのようなだんご汁だっただろう?良く食べ、良く遊んだ半面、家庭で厳しく教育された。学校でも厳しい教育を受けたであろう。

1877年(明治10年)5月に西南戦争がおこり、竹田で攻防戦があった。お客屋敷の柱の刀傷はこのときに出来たと伯父から聞いたことがある。このころの竹田は物騒な状況にあった。武夫の父・重武は飛騨の高山で高山区裁判所長の職についていた。武夫はこの年の10月に飛騨高山へ移った。10歳(小学校3年生)のときである。飛騨高山ではかん章小学校に転入した。学校では歴史・地理を好み良く学んだようだ。また良く遊び、遊び場は白山神社境内であった。武夫が11歳の18787月に弟・吉夫が誕生している。

一方、秋山真之は子供の頃、腕白ながき大将であった。仲間を引き連れ、戦争ごっこをしたり、花火を自分で作って打ち上げたりして、両親も手を焼く子供だった。しかし同時に地元の漢学塾に学び、和歌も習っている。彼の得意はかけっこと水泳と絵だったようだ。秋山真之はよく遊び、良く学ぶだけでなく、科学好きで独創的なところがみられる。

正岡子規5歳の1873年から末広学校へ通い、7歳の1875年に勝山学校へ転校し、11歳の1879年に同校を卒業している。その間の1878年に初めて漢詩を作り、文学的才能を発揮している。正岡子規は秋山真之と異なり、良く学びが中心の生活のようである。

また夏目漱石6歳の1874年に小学校に入学した。小学校の名前は「第八番公立小学校戸田学校下等小学校第八級」という。びっくりするような長い名前である。1875年に養父母が離婚したため、養子先の塩原家から生家の夏目家に引き取られ、戻っている。これは子供にとっては一大事で、心に大きな影響を与えただろう。1879年に中学に入学した。東京府第一中学校正則科第7級乙科である。これも長い名前である。

さて私の事であるが、1951年(昭和26年)に小学校に入学した。目黒区の大岡山小学校である。1年間だけで、転校した。引越に伴う転校である。最初の転校は目黒区の大岡山小学校から世田谷区の砧小学校へである。ここも2年生の1年間だけで転校した。3年になるときに、新しく小学校が出来た。私は3年から新しく出来た明正小学校に転校となった。当時、明正小学校は出来たばかりで、校庭も整備されていなかった。先生と一緒に校庭の石ころを拾い、校庭の整備をした。転校を2回経験がしたが、転校に伴う問題はとくになかった。
 日本の状況は現在の日本とは異なる。経済発展する前の一昔前の日本である。私も小学生時代は良く遊んだ。相撲をしたり、竹馬をしたり、また近くの野山で探検をしたり、ちゃんばらごっこをしたり、近くの原っぱでラグビーの真似事をしたり、蝶やトンボを取ったり、近くの川で釣りをしたり、学校の庭で放課後日が暮れるまでソフトボールをしたりした。自分の小さい頃は民主主義の自由な空気に包まれ、何があるというわけではないが、自然が残っており、伸び伸びとした生活を送っていたように思う。しかし、小学校時代の先生は厳しい方だった。名前を青山正治先生という。子供時代の出来事は非常に心に残る。この頃に基本的な考え方が出来上がったように思う。

 
 
4.代用教員時代・・・1214歳(18801882/明治1315
 

1880年(明治13年)〜1883年(明治16)の日本では、1880年に国会開設の請願書が提出され、18881年に国会開設の勅諭が出された。この年から翌年にかけて政党が結成されている。1881年に板垣らが自由党を結成し、1882年に大隈らが立憲改進党を結成している。また、このころ国家「君が代」が初めて演奏されている。

広瀬武夫は1877年(明治10年)の9歳のときに高山に移り住み、高山かん章小学校に転入し、1880年(明治13年)3月の12歳のときに高山かん章小学校を卒業した。そして同年4月に代用教員なり、1833年(明治16年)4月の15歳のときに代用教員から岐阜華陽中学に入学している。武夫が小学校を卒業してから、すぐに中学に行かず、代用教員になった理由は分からない。また今の日本では12歳で代用教員になることは考えられない。たまたま教員が足りなかったのかも知れない。武夫に漢詩の才があり、父・重武が信用されていたこともあると思われる。武夫は代用教員のときは詩作にふけっているが、漢詩の先生になったのではないか?心寂しかったこもあるかもしれない。この時期は、母親が継母・きん子で、父・重武は各地の裁判所を転々と移動し、忙しく、家に居ないことが多かったと思われる。

父・重武の状況であるが、重武40歳の1875年(明治8年)に松浦きん子と再婚した。重武41歳の1876年(明治9年)5月に神奈川裁判所在勤を命ぜられ、同年10月に松本裁判所在勤を命ぜられ、同年11月に高山区裁判所長に命ぜられる。翌1877年(明治10年)7月に判事補となり、高山区裁判所長となる。同年9月名古屋裁判所在勤の高山区裁判所長に命ぜられている。この年に一家は飛騨高山に移った。1880年(明治13年)に勤勉につき表彰され、金一封を貰っている。1881年(明治14年)10月に判事になり、高山始審裁判所長に命ぜられ、さらに12月に高山治安裁判所長に命ぜられている。そして翌1882年(明治15年)二月に叙正八位になり、重武48歳の1883年(明治16年)に岐阜始審裁判所詰を命ぜられている。

1882年(明治15年)1月に衛藤敦夫から広瀬重武宛に書簡が送られている。広瀬重武が高山治安裁判所長をしていたときで、広瀬武夫は代用教員をしていたときにあたる。書簡の内容は次のようである。原文、読み下し文、現代語訳の順に記す。

 原文:
「新聞ニ拠レハ高山裁判所ハ岐阜二合併ト見エタリ 
八雪兄二ハ如何ノ御都合二御座候也」

 読み下し文:
「新聞に拠れば高山裁判所は岐阜に合併と見えたり 八雪兄には如何の御都合に御座候や」

 現代語訳:
「新聞によると高山裁判所は岐阜始審裁判所に合併されたと書いてありました。八尺もある雪深いところにいる兄上はどのような状況にありますか?」

なお、原文、読み下し文、現代語訳の解釈にあっては土原ゆうきさんの協力をいただきました。
明治の人の筆による字は崩しているので簡単には読めません。専門的知識が必要でした。

 
衛藤敦夫から広瀬重武宛の書簡
1882年(明治15年)1

一方、秋山真之(1868年4月生)は13〜14歳(1881〜1882/明治14〜15)のころはまだ松山にいた。12歳1880年(明治13年)に旧制愛媛一中に入学した。漢学塾で漢学にも励んでいる。15歳の1883年(明治16年)に旧制愛媛一中を中退し、上京し、共立学校(現・開成高校)に入学した。秋山真之は正岡子規に刺激され、子規と同じような行動を取っている。これは東京で学問を身につけ、立身出世をするというという当時の考え方の表れである

ところで、正岡子規186710月生)も1214歳(18791881/明治1214年)のころは松山にいて、松山の中学校で勉学に励んでいた。子規は幼くして家督を相続したが、漢学の勉強をしただけでなく、自由民権運動にも関心を寄せている。1880年(明治13年)に旧制愛媛一中(現・松山東高校)に入学した。子規が13歳のときである。当時の旧制愛媛一中の教育年限は5年間だったが、15歳の1883年(明治16年)5月に中退した。その後上京し、16歳になった10月に共立学校(現・開成高校)に入学している。正岡子規は秋山真之にお手本を示すように一歩先を歩いている。

また夏目漱石1867年生)は、1214歳というと1879年(明治12)〜1881年(明治14)になる。12歳の1879年(明治12)に東京府第一中学校正則科第七級乙科に入学した。そして14歳の1881年(明治14)には漢学塾二松学舎第三級一課に入学した。漱石は中学校教育を二つの学校で受けている。二つ目の学校は漢学塾である。当時、漢学は必須の学問として位置づけられていたためである。この年に母・ちゑが亡くなっている。

 なお、1214歳はというと中学校時代になる。
12歳の1957年(昭和32年)4月に世田谷区立砧中学校に入学し、15歳の1960年(昭和35年)に卒業した。学校名の「砧」というのは織物を作るのに使う道具のことで、昔その付近で使われていたのがその由来である。
 中学からはクラブ活動が始まった。足に自信があったので陸上部にはいった。短距離・マラソン・走り高飛び・走り幅跳びと何でも試みた。マラソンのような長距離は苦手で、100mのような短距離走は得意であった。このころ、短距離走で世田谷区の大会に出場したことがあるが、初めてはいたスパイクになじめず、スタートで出遅れ勝てなかったのを覚えている。運動靴でしか練習を行っていなかったからである。また走り高飛びは正面飛びを練習したが、飛べた高さは
150cmくらいであった。
 当時、人気のあったスポーツは野球である。小学校のときはソフトボールであったが、中学校では軟式野球になった。中学校にはリッパな野球グラウンドがあり、そこでよく野球[軟式)をやって遊んだのを覚えている。クラス対抗の野球大会もあった。相撲も野球についで人気があり、休み時間にはよくやったものだ。
 中学校の同期の仲間たちは、卒業後さまざまな方向に散らばっていき、私とは異なる生き方をした、人生いろいろな人間の集まりである。勉強も高校進学があったので結構頑張ったように思う。私は高校に進学したが、中学校を卒業して手に職をつけた友人もいる。
1415歳というのは人生の最初の節目のようである。進学と就職という大きな問題にぶつかる。どちらが良いかは人によって異なると思う。中学校の先生方は厳しさと愛情をもって勉強だけでなく、進学と就職の問題に対処していたように思う。4年に1度、オリンピックの年に同期会があるが、同期の仲間たち会うと、気持ちは自然に中学生時代に戻る。

 ところで私は代用教員の時代を書いて次のような印象を持った。今の時代には小学校を卒業した子供が教員になるということは考えられない。時代の差を感じる。また、小さい頃から漢文を勉強し、漢文の素養を身につけている。日本人の勉強あるいは学問に対する考え方を見直すことが必要かも知れない。私などは明治の書簡(手紙)の文字を読む事が出来ません。読むにはある程度の専門的知識が必要です。小・中学校で勉強しておくことが必要ではないかと考える。
 しかしそれは簡単なことではないので、少なくとも中学・高校の時代に夏目漱石の本を読むことは必要であるとおもう。そうしないと、私は現代日本の源流となる日本の明治の時代の人間の考え方が理解出来なくなると思う。因みに、私は中学・高校の時代に夏目漱石の本を一通り読んだ。これは父の友人から強く勧められたからである。何かを考えさせられる本である。いまでも漱石が何を言いたかったかを考えるときがある。

5.中学校時代・・・1517歳(18831885/明治1618
 
 1883年(明治16年)〜1885年(明治16年)の明治の歴史を見よう。1882年(明治15年)〜1883年(明治16年)にかけて伊藤博文が憲法の調査をドイツでおこなっている、かれは君主制の強いプロシャの憲法を模範にしようと考えた。1885年(明治16年)に内閣制度が施行され、伊藤博文が初代総理大臣に就任している。一方、自由民権運が高まるにつれ、1882年〜1886年にかけて、各地で事件が多発した。1882年に板垣退助の暗殺事件と福島事件(強制道路工事反対運動)、1883年には高田事件(大臣暗殺計画)、1884年に群馬事件(貧農蜂起)・名古屋事件(政府転覆計画)・飯田事件(反政府運動)・秩父事件(貧農蜂起)・加波山事件(栃木県令暗殺計画)、1886年に静岡事件(政府要人暗殺計画)などが起きた。1883年(明治16年)〜1885年(明治16年)のころの日本は、明治政府が君主制を念頭においた国を作っていこうと内閣制度をつくり、憲法の調査を行っていた段階で、国民の生活は苦しく、反政府運動が多発し、騒然として落ち着かない状況にあった。

 ところで、広瀬武夫は高山かん章小学校の代用教員をしていたが、1883年(明治16年)3月に退職し、4月に岐阜華陽中学校に臨時入学した。武夫が15歳のときである。父・重武(48歳)は岐阜始審裁判所詰を命ぜられ、3月に岐阜に単身赴任している。このとき、武夫は父の後を追ったが追い返されたとある。父のもとで仕事をしたかったのかも知れない。武夫は同年5月に16となる。10月に上京し、攻玉社に入塾した。同時期に下谷の講道館に入門している。この時期、攻玉社で頭を鍛え、講道館で体を鍛えた。武夫が17歳の1884年(明治17年)に継母きん子が亡くなっている。翌1885年(明治18年)の6月に念願?の海軍兵学校15期生)の採用試験を受けている。最初は失敗に終わったが、9月の追加募集で入学した。武夫が18歳のときである。

 秋山真之であるが、12歳の1880年(明治l3年)に旧制愛媛一中に入学した。その後、15歳の1883年(明治16年)に旧制愛媛一中(中学5年?)を中退し、上京し、共立学校(現・開成高校)に入学した。その後、161884年(明治17年)に大学予備門(後の第一高等中学校、現・東京大学)に進学し、1886年(明治19年)に海軍兵学校17期生)に入学している。秋山真之18歳のときである。真之は広瀬武夫と海軍兵学校で後輩・先輩の間柄となった。なお、秋山真之は最初は「博士か大臣」かを目指していたようであるが、実家の経済を考え、自活する道として、海軍兵学校に行き、軍人になる道を選んだ。

 また正岡子規15歳の1883年(明治16年)5月に旧制愛媛一中(現・松山東高校)を中退した。その後上京し、16になった10月に共立学校(現・開成高校)に入学した。翌1884年(明治17年)9月に大学予備門(後の第一高等中学校、現・東京大学)に入学した。17歳になろうとするときである。このころから俳句を作り始めている。21歳の1888年(明治21年)に子規は第一高等中学校予科を卒業し、本科へ進級している。

 一方、夏目漱石16歳の1883年(明治16年)に大学予備門受験準備(後の第一高等中学校、現・東京大学)のため、成立学舎に入った。そして171884年(明治17年)に大学予備門の予科に入学した。1886年(明治19年)には留年している。漱石19歳のときである。

筆者のは思うに、当時の明治では世間一般に立身出世「末は博士か大臣か」の考え方があり、それを望んでいても、実際には生活すること自体が大変であった。皆が若いときからどうやって自活するかを考えていた。自活する方法としては小学校あるいは中学校を卒業して社会に出て仕事を得るのが普通だった。
 その一方で高等教育を受けて、エリートコースを歩む道があった。エリートコースの一つは「軍人」になることである。エリートの「軍人」になるには海軍兵学校のような学校にいく必要があった。広瀬武夫や秋山真之はこの道を進んでいる。広瀬武夫は私立の学校から海軍兵学校へ進み、秋山真之は大学予備門から海軍兵学校へ進んだ。その目的の一つは前述のように自活の道を確立する事であった。当時、海軍兵学校は大学と同等の評価を与えられていたようにと思われる。
 もう一つは「末は博士か大臣か」の道である。博士か大臣になる最善の方法は「大学  に行く事であった。しかし大学などの高等教育を受けることは時間的にも金銭的にも大変だった。先ず、1617歳になったら大学にいくための予備校のような学校に通い、1718歳になったら目的とする大学の付属教育機関(大学予備門の予科と本科)に通い、それからようやく大学に入学できた。そしてエリートの人生がスタートした。正岡子規と夏目漱石はこの道を進んだ。

 ところで私はというと、15歳〜17歳は高校時代になる。私のころには「末は博士か大臣か」という世間一般の考え方はなかった。むしろ、「非凡なる凡人」という考え方があった。15歳の1960年(昭和35年)4月に高校に入学し、18歳の1963年(昭和38年)に卒業した。高校は目黒の伯母の家の近くにあった都立大学付属高校に入った。当時の都立大学付属高校は、旧制高校「府立高校」の伝統が生きていた。「自由自治の精神」と「真理の探究」である。その基本は、自分(個人)あるいは自分達(個の集団)で「何が真理か」そして「何をすればよいか」を考え、議論し、責任にある行動を取ることであった。自治会もしかり、学園祭(記念祭という)もしかり、クラブ活動もしかり、勉強もしかりであった。先生方の授業の内容は学問の領域にあり、自分にはかなり高度で、一生懸命真理の探究をしたように思うが優秀な成績というには遠かった。またいろいろな問題に対してはアドバイザーのように私たちが相談すれば相談に乗るという風であった。クラブ活動はサッカー部に入った。サッカーのおかげで個と集団の関係を知り、チームワークという概念を理解した。また同輩の友人だけでなく、先輩・後輩のつながりもできた。都立大付属高校サッカー部ではいまでも一年に一回懇親会を開き、交流を深めている

6.兵学校時代・・・1821歳(18861889/明治1922
 

1885年(明治18年)〜1889年(明治22)の日本の歴史をみると、1885年(明治18年)に内閣制度が出来、初代総理大臣に伊藤博文が就任した。1886年(明治19年)にノルマントン号事件が起こり、日本人の国権意識に火がついた。1887年(明治20年)に伊藤博文は鹿鳴館の仮装舞踏会のような表面的な欧化政策を取りながら、同時に1880年の集会条例を一歩進めた保安条例をつくり、治安維持を図った。1888年(明治21年)に憲法草案を審議するための枢密院(天皇の相談機関)を設置し、審議を始めた。この年には高島炭鉱の炭鉱員の虐待が問題となっている。かくして1889年(明治22)に大日本帝国憲法が発布され、アジアで最初の立憲政治が始まった。これは日本の国の基本的な形(体制)が確立したことを意味する。しかし実際には表面的に外国の真似をしたという面があり、十分に機能せず、後世にいろいろな問題がおきる。また一般の人々の生活も相変わらずである。この後、日本は戦争に突き進むことになる。ともかく、大日本帝国憲法の発布は日本と日本人にとって明治維新に次ぐ大きな変曲点であった。

さて、広瀬武夫は兄・勝比古の影響を受け、海軍兵学校を目指した。勝比古は1879年(明治12年)に海軍兵学校に入学し、1883年(明治16年)に海軍兵学校を卒業している。武夫は18歳の1885年(明治18年)6月に海軍兵学校の採用試験を受けた。しかし、落ちる。9月に追加募集の試験を受け、上位で無事通る。同月に攻玉社を卒業した。海軍兵学校(15期生)に実際に入学するのは12月である。広瀬武夫の頭脳は「かみそり」のようなタイプでなく、「なた」のようなタイプのようで、だんだんに能力を発揮していく人間であると思う。また広瀬武夫は海軍兵学校に入学してから、柔道に目覚め、講道館や兵学校の庭で練習をおこない、腕を上げた。そして柔道が唯一(?)の趣味になった。
 1886年(明治19年)に、父・重武が退官し竹田に帰住した。武夫が19歳のときである。1887年(明治20年)〜1888年(明治21年)は広瀬武夫(2021歳)にとって大変な年であった。1887年(明治20年)には大怪我をし、1888年(明治21年)には大病(骨膜炎)にかかっている。
 1889年(明治22年)4月に広瀬武夫は海軍兵学校を無事卒業し、少尉候補生となった。乗り組むことになった軍艦は「比叡」である。6月には卒業祝いの宴を同郷人が開いた。8月には実地練習のため、軍艦「比叡」で初の遠洋航海に出航した。行き先はハワイ・ホノルルである。広瀬武夫の海軍人生の始まりである。

さて秋山真之は、1885年(明治18年)は大学予備門に在学し勉学に励んでいた。大学予備門卒業後、1886年(明治19年)に海軍兵学校(17期生)に入学し、1890年(明治23年)に卒業した。首席である。卒業後は少尉候補生として軍艦「比叡」に乗り組み、実地演習を重ねることになる。広瀬武夫に遅れること1年である。

また正岡子規17歳の1884年(明治17年)9月に大学予備門(後の第一高等中学校、現・東京大学)に入学した。入学後、野球を始め、また、このころから俳句を作り始めている。21歳の1888年(明治21年)に第一高等中学校予科を卒業し、本科へ進級した。翌1889年(明治22年)に結核を病み、喀血した。同年、雅号を「子規」と号した。雅号の「子規」は「ホトトギス」のことで、喀血と関係がある。このとき子規は自分の人生の歩くべき道がはっきりと見えたのではないかと思う。1890年(明治23年)に本科を卒業し、帝国大学文科大学哲学科に入学を果たした。

一方、夏目漱石1884年(明治17年)に大学予備門の予科に入学した。漱石が17歳のときである。正岡子規と同じ年である。1886年(明治19年)に大学予備門は第一高等中学校と改称された。この年に漱石(19歳)は留年を味わった。翌年の1887年(明治20年)に長兄と次兄が続いて死去している。漱石が20歳のときである。1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて漱石は難問を抱えた状況にあったが、1888年(明治21年)の1月に漱石は塩原家から夏目家に復籍し、9月に第一高等中学校本科第一部(文科)進学した。翌1889年(明治22年)に正岡子規と親しくなる。このころ子規の句集に「漱石」と署名をしている。漱石と子規は大学予備門で同窓ということになる。1890年(明治23年)に帝国大学文科大学英文学科に入学する。この後、漱石は子規と異なる道を歩くことになる。

 筆者の1821歳は浪人時代〜大学時代に当たる。18歳の1963年(昭和38年)の3月に高校を卒業した。同年4月に大学の入試を受けたが、受からなかった。浪人生活を送り、翌1964年(昭和39年)に大学(国立東京農工大学)に入学した。分野は農芸化学にするか工業化学にするか考えたが結局工業化学を選んだ。19歳のときである。1年の一般教養はあまり興味がわかず、適当に過ごした。大学祭では頑張ったが・・・。2年からは実験が始まり、のんびりというわけにはいかなくなり、3年ではさらに実験が忙しくなった。実験は精神を集中しないと、起こっている現象・変化を見逃すだけでなく、事故を起こす。同じ実験を行っても、条件や順序を間違えると、同じ結果が得られない。科学は理論と実験から成り立つが、化学の本質は理論より実験にありと思う。
 3年の夏休みに、会社見学旅行があった。見学場所はほとんど忘れたが、最後に訪問したのは八幡製鉄(現新日本製鉄)である。会社見学が終わった後、それぞれが思い思いの場所に散らばっていった。私は蝶マニアの田島君たちと種子島・屋久島行きを選んだ。でっかい荷物を背負っていったのを覚えている。屋久島の宮之浦岳を目指したが結局、山頂には立てなかった。急勾配で南国的な島というのが屋久島の印象である。1966年(昭和41年)のことで、21歳のときである。
 4年から筆者の私は吉野善弥研究室にはいり、研究を始めた。22歳のときである。研究対象は固液分離とくにろ過の研究である。研究対象にろ過を選んだのは、珈琲のろ過のことが頭にあったからである。研究の手法は実験を主体にした研究であった。文献も沢山読んだ。ほとんど英語で、技術用語を訳すのが一苦労であった。自分の研究だけでなく、他の人の研究や企業の依頼研究も手伝だった。先生は厳しい方であった。環境分野に対する研究(たとえば廃水処理・有効利用)と教育(人材育成)には強い情熱を感じた。先生はすでに故人となられたが、研究室の先輩・後輩とはいまも交流がある。
 大学時代は勉強や研究が忙しかったが、休みのときには借り出され、家の仕事(珈琲・喫茶店の仕事)も手伝だった。皿洗いである。
 1968年(昭和43年)に大学を卒業した。就職試験受けたが、落とされた。就職には専門的知識が必要であることがわかった。当時、農工大には修士コースしかなかったが、大学院に行くことにした。23歳のときである。

7.海軍時代その1(遠洋航海)・・・2126歳(18861889/明治1922
 

海軍時代その1・・・2126歳(18891894/明治2227年)

1889年(明治22年)〜1894年(明治27)の日本の歴史を見てみよう。1889年(明治22)に大日本帝国憲法が発布され、アジアで最初の立憲政治が始まった。1890年(明治23年)には第1衆議院議員選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれた。この時の政府は藩閥内閣で、内閣総理大臣が旧長州の山県有朋で、閣僚は旧薩摩と旧長州出身者で占められていた。選挙で政府による干渉があったが、選挙結果は反政府側の民党(立憲自由党と立憲改進党)が過半数を得た。しかし、明治政府は政府主導の政治を行い、巨額の軍事費と産業奨励費からなる予算を提出し、民党(立憲自由党と立憲改進党)と激しく対立した。そして卑劣にも立憲自由党の議員を買収して、政府予算案を可決し、戦争準備を進めていった。またこの年、政府は教育勅語を発布し、国民とくに若い世代を政府の方針に誘導する施策をとった。
 1891年(明治24年)に大津事件足尾銅山鉱毒問題が起きた。またこのころ第一次産業革命が始まった。1892年(明治25年)には松方内閣が選挙に大干渉を行った。1893年(明治26年)に陸奥宗光が条約改正交渉を始め、翌1894年(明治27年)に日英通商航海条約が締結され、治外法権が廃止された。この年から、日清戦争が始まった。政府は国家レベルの富国強兵と海外進出の考えを押し進め、国家の基礎となる国民ひとりひとりの生活を楽にするという発想はなかった。政府が主(あるじ)で、国民が下部(しもべ)という感覚である。

さて、広瀬武夫1889年(明治22年)4月に広瀬武夫は海軍兵学校を無事卒業し、少尉候補生となり、広瀬武夫の海軍人生が始まった。1889年(明治22年)8月から1890年(明治23年)2月にかけて、実地練習のため、軍艦「比叡」で初の遠洋航海に出航した。行き先はハワイ・ホノルルである。この年に清水次郎長を訪問している。これは上に立つ者としての心構えを聞いたのだろう。広瀬武夫が22歳のときである。
 1891年(明治24年)1月に少尉になり、海門の分隊士になり、朝鮮沿海を巡航した。その後、比叡分隊士になり、1891年(明治24年)9月から1892年(明治25年)4月にかけて豪州遠洋航海をしている。この時に航南私記を記した。航南私記は行った場所を緻密に観察し、広瀬武夫独自の観点できめ細かく多角的に考察と感想を述べた、漢詩もある面白い航海日記である。
 1892年(明治25年)の6月には筑波分隊士になり、内海測量に従事している。7月に竹田に帰省した。このころに出した広瀬武夫から衛藤敦夫あての書簡がある。書簡の写真と内容は以下のようである。広瀬武夫が25歳のときである。

広瀬武夫から衛藤敦夫あての書簡(写真)

(中略)
右から
封筒:広瀬武夫から衛藤敦夫あての書簡の封筒(明治
25717日)
書簡:広瀬武夫から広瀬勝比古あての書簡(勝比古の添書あり)(明治241211日)
注)明治241211日にシドニー港(軍艦比叡に乗艦)で書いたものを、明治25717日に神戸兵庫で碇泊中(軍艦筑波に乗艦)に投函したと思われる。

広瀬武夫から衛藤敦夫あての書簡(内容)

書簡(原文):

弟武モ元気大賀ニ候
ニ弟潔吉トモ壮健
勉励罷在候
       勝比古

拝呈
去ル先日午前者悉土尼府ニ到着セリ艦内皆
健全御安神アレ小弟モ例ノ如シ御放念
昨日如何ナル日ヤ去ル十月十日御認ノ手紙
ニ接シ家山及ヒ同胞各位ノ御近況ヲ審
カニシ大ニ安心仕候先以テ御祖母様
厳大人母上様兄上様ニ至ルマテ

頗ル御健全ノ趣大慶ノ至弟

吉夫病気モ存外ニ永ヒキ候趣十
月末ナラデハ退院ノ運ニ至ラザル旨
実ニ兄上様潔夫小池一家ヨリ故
山ノ各位ニ至ルマテ御心配奉察候

出帆前匆卒ノ際其養生費トシテ
多少残シ置候ガ迚モ追付キ兼ネ候事ト
存候何分宜敷厳大人兄上様御
配慮ヲ奉煩候拾壱月分ヨリ俸給
半額ハ嘉納幼年舎湯浅松之助
氏幸ヒ塾内ノ会計ヲ司リ且ツ海軍
本省ヘ出勤致居候者故萬事委
托致置候間其日迄ガ困難ナランカト存候

出帆ノ間際兄上様ノ御転勤ヲ承知大ニ
安堵仕候猶何分ニモ御配慮奉煩候
赤坂麻布最寄ヘ一戸ヲ借受ケ弟達
ニ松浦老母ヲ團メ候御趣向大賛成
御序ニ御老祖母様始メ厳大人
等ノ御安堵ノ為御迎内有之テハ
如何東京在勤中ノコトナレバ
萬事好都合ノコトト存候

只今三池丸入港致候
小弟猶未タ上陸ヲ試ミス新
不利巓後ノ紀行ト共ニ申上ヘリ候
今日モ又明日船便アリトノ急報ニ接
シ匆々染筆仕候間毎度
ナガラノ乱筆御高免ヲ乞フ
家山ニモ宜敷御傳言奉願上候
  十二月十一日
              武夫
兄上様
 得濠州悉土尼港

書簡(現代語訳)

弟武夫も元気とのこと、喜ばしい事です
また弟、潔夫・吉夫も壮健、勉励しております
                勝比古

 拝呈
さる九日午前ごろ、シドニーに到着しました

比叡艦の皆も健全です。御安心ください。小弟も例のごとく元気にしておりますので、御心配なさらぬように。
昨日、十月十日付の兄上様の手紙を入手し、家山及び同胞各位の詳細な近況を知り、大いに安心しました。
御祖母様、厳大人、母上様、兄上様に至るまで大変御健全とのこと、大慶の至りであります。

弟吉夫の病気が意外と長引き、十月末でなければ退院できないとのこと、兄上様、潔夫、小池一家など故山の皆様も、さぞ御心配のことと思います。

日本を出帆する際、吉夫の養生費を多少ながら置いて行きましたが、とてもそれでは追いつかないと思います。
何分よろしく厳大人、兄上様、御配慮をお願いいたします。十一月分より私の俸給の半分を嘉納幼年舎の湯浅松之助氏、彼は塾内の会計をしており、さらに海軍本省で働いている人ですので、彼に万事委託しておきました。ですのでその日までが金銭的に苦しいかと思います。

出帆の間際、兄上様の御転勤を聞き、おおいに安堵いたしました。何分にも吉夫のこと、御配慮ください。
赤坂か麻布あたりに家を借り、弟達や松浦老母を集めようというお考え、大賛成です。ついでに御老祖母様や厳大人等を安心させるために御迎えされてはいかがでしょうか。東京在勤中のことですから、万事好都合のことと思います。

たった今三池丸が入港してきました。
小弟、まだ上陸はしていません。上陸後の話はまたニューブリテン後の記行と共に申し上げます。
今日、明日もまた船便が出るという急報を聞き、早々に手紙を書きました。毎度ながらの乱筆ではありますが、お許しください。
家族の皆様にもよろしくご伝言くださいますようお願い申し上げます。
  十二月十一日
              武夫
兄上様
オーストラリア・シドニー港

この手紙はきわめて個人的な内容を記している。この内容から武夫が家族のことを気遣っていることがよくわかる。また広瀬武夫が兄・勝比古とお互いに近況を報告し合い、二人で家族の面倒を見ていた様子が伺える。蛇足であるが、この手紙に日清戦争や軍事的な内容に関する記述はない。なお、原文、読み下し文、現代語訳の解釈にあたっては土原ゆうき氏の協力を頂いた。

 1893年(明治26年)に広瀬武夫は水雷術練習尉官教程を終了した。そしてこの年からロシア語を習い始めている。
 1894年(明治27年)に日清戦争が始まった。広瀬武夫はこの戦争に従軍している。乗艦したのは門司丸である。広瀬武夫が27歳のときである。豪州遠洋航海(   1891年(明治24年)9月〜1892年(明治25年)4月)の2年後である。

 さて秋山真之は、1889年(明治22年)は海軍兵学校(17期生)在学中で、1890年(明治23年)に卒業した。首席である。卒業後は少尉候補生として軍艦「比叡」に乗り組み、実地演習を重ねることになる。広瀬武夫に遅れること1年である。1892年(明治25年)5月に海軍少尉に任官。砲術練習艦に乗艦し、分隊士となった。1894年(明治27年)には通報艦「筑紫」の航海士となり、日清戦争に従軍した。秋山真之が26歳のときである。このころ、秋山真之は広瀬武夫とほぼ同じ道を進んでいる。

また正岡子規1889年(明治22年)は第一高等中学校本科に在学していたが、結核を病み、喀血した。同年、雅号を「子規」と号した。雅号の「子規」は「ホトトギス」のことで、喀血と関係がある。1890年(明治23年)に本科を卒業し、帝国大学文科大学哲学科に入学を果たした。翌1891年(明治24年)に国文科に移り、結局1892年(明治25年)に帝国大学を退学して、日本新聞社に入社した。1894年(明治27年)に日清戦争が始まったが翌1895年(明治28に年)に記者として従軍した。子規が28歳のときである。子規は無理を承知で仕事を優先し、寿命を縮めることになる。

一方、夏目漱石1889年(明治22年)に大学予備門で正岡子規と親しくなる。このころ子規の句集に「漱石」と署名をしている。漱石と子規は大学予備門で同窓ということになる。1890年(明治23年)に帝国大学文科大学英文学科に入学する。1891年(明治24年)に方丈記を英訳する。1892年(明治25年)には東京専門学校(現・早稲田大学)の講師を務め、翌1893年(明治26年)には帝国大学大学院に入学し、高等師範学校の英語嘱託になる。1894年(明治27年)に愛媛県の尋常中学校の嘱託教員になり、赴任する。この時期は漱石の大学〜大学院時代である。講師や嘱託教員を勤めているが生活のためのお金を得るためと思われる。

 筆者の2126歳は1966年(昭和41年)〜1971年((昭和46年)で大学〜大学院時代に当たる。私の21歳は大学2年のときである。23歳の1968年(昭和43年)に東京農工大学を卒業し、大学院に進学した。大学・大学院では固液分離のろ過について勉強・研究した。大学のときの研究は主として、「水平流ろ過」についてで、大学院の研究は「ろ過における粒子捕捉のメカニズム」についてである。大学院はマスターコースの2年間で、25歳の1970年(昭和45年)に卒業した。そして同年4月に水処理の会社である荏原インフィルコ(現荏原製作所)に入社した。

8.海軍時代その2(日清戦争)・・・26〜29歳(1894〜189/明治2730年)
 

 まず1894年(明治27年)〜1897年(明治30)の日本の歴史を見てみよう。
 1893年(明治26年)に陸奥宗光が条約改正交渉を始め、翌1894年(明治27年)に日英通商航海条約が締結され、治外法権が廃止された。この年に、日清戦争が始まった。日清戦争は1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけておこなわれた。10か月後の18954月に日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。この結果、日本は賠償金31千万円と中国・遼東半島および台湾・ほう湖列島を得、清国に朝鮮の独立を認めさせた。しかし、フランス・ドイツ・ロシアが三国干渉を行い、清への遼東半島返還を要求し、日本は結局これに応じた。
 ところで、列強といわれるヨーロッパの国々(ロシア・フランス・イギリス・ドイツなど)のアジア進出は1838年ごろから始まっている。当時、列強といわれるヨーロッパの国々は植民地政策による領土拡大を試み、勢力拡大を狙っていたのである。清国は1710年頃に世界最大の帝国になっていたが、日清戦争(1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)に敗れ、列強といわれるヨーロッパの国々の餌食となった。日清講和条約後からフランス・イギリス・ドイツなどの列強が中国侵出を激化させた
 また、日清戦争は朝鮮半島をめぐる日本と清国の争いであるが、当時の政府や国民には列強から侵略をされずに独立を守るため、朝鮮半島を防衛線とする考えがあり、戦争を始めるに至ったのはこのような考えが底流にあるのを見逃すことはできない。そして日本の明治政府は征韓論(1873年(明治6年)に見られるように、膨張政策をとり、朝鮮への領土拡大策(侵略政策)を重要な政策の一つとしていたので、当然の結果といえる。当時、日本は朝鮮からいろいろな物品を輸入している。重要なものに「金」があった。結局、1910年に日本は韓国を併合することになる。
 なお、賠償金の大部分は戦費や軍備拡張に費やされた。またこの戦争によって、三井・三菱は莫大な利益を得、日本の資本主義が発展する契機になった。しかし、日清戦争後、ロシアとの戦争に備え、間接消費税を新設し、大幅な増税(1899年には1893に比べ、税収が17.3%増加)を行った。これは労働者や農民の生活を圧迫した。政府は国家レベルの富国強兵と海外進出による領土拡大を志向し、国家の基礎となる国民ひとりひとりの生活を楽にするという発想はなかった。政府が主(あるじ)で、国民が下部(しもべ)という感覚である。」
 1897年(明治30年)日本は金本位制を実施するが、これは日本の経済力の誇示のためと考えられるが、朝鮮で産出される金が裏づけとなっていた。

さて、広瀬武夫1893年(明治26年)に広瀬武夫は水雷術練習尉官教程を終了した。そしてこの年からロシア語を習い始めている。1894年(明治27年)に日清戦争が始まった。日清戦争の期間は1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月の10ケ月間である。豪州遠洋航海(1891年(明治24年)9月〜1892年(明治25年)4月)から2年後のことである。
 広瀬武夫はこの日清戦争に1894年(明治27年)725日から従軍した。乗艦したのは門司丸である。広瀬武夫は運送監督としてもっぱら運送業務に従事した。実際の戦闘に参加できず、悔しい思いをしたとある。その後1020日ごろに広瀬武夫は917日の黄海大孤山下の海戦で軍功を立てた兄・勝比古を軍艦浪速に訪ね、話を聞いている。 
 10
23日から待望の航海士として軍艦扶桑に乗り込むことになった。広瀬武夫は121日付で戦況報告をしている。その中に、扶桑を墓地と考え、扶桑を織り込んだ辞世の句を記し、ようやく海軍軍人の任務を果たす事ができるとの思いと死を覚悟して臨む決意を示している。しかしこのときも海戦に至らず、失望したとある。また旅順市街を見て「戦死者が多く、酷い状況である」と感想を記している。これらのことは軍神広瀬中佐詳伝に詳しい。
 日清戦争の終る直前の
1895年(明治28年)3月に大尉に昇進した。広瀬武夫が27歳のときである。大尉時代に撮ったという写真がある。

 広瀬武夫の大尉時代に撮ったという、我が家にある写真。
広瀬武夫の大尉時代は1895年(明治25年)3月〜1900年(明治30年)8月の55ケ月間。
なお、ロシア留学は大尉時代の18978月からである。
 

広瀬武夫は1896年(明治29年)に磐城の航海長になり、朝鮮南岸で精密測量に従事する。そして1897年(明治30年)5月には軍令部諜報課部員となり、8月からロシア留学することになる。

 さて秋山真之は、1894年(明治27年)には通報艦「筑紫」の航海士となり、日清戦争に偵察などの支援活動で従軍した。1896年(明治29年)に横須賀に転属し、海軍水雷術練習所で水雷術を学び、横須賀水雷団第2水雷隊付になる。同年10月に大尉になる。秋山真之が28歳のときである。そして11に軍令部諜報課員になり、中国東北部で活動する。1898年(明治31年)にアメリカへ留学することになる。このころ、秋山真之は広瀬武夫とほぼ同じ道を1年遅れで進んでいる。

また正岡子規は結局1892年(明治25年)に帝国大学を退学して、日本新聞社に入社した。1894年(明治27年)に日清戦争が始まる。翌1895年(明治28年)4月に記者として従軍した。その帰路に喀血する。日清戦争の終わる直前である。子規が28歳のときである。1896年(明治29年)に脊椎カリエスを発症して、床に伏す日が多くなったが、子規庵で句会を開いている。1897年(明治30年)には俳句雑誌「ホトトギス」を創刊している。子規は無理を承知で仕事を優先し、寿命を縮めることとなった。

一方、夏目漱石は翌1893年(明治26年)には帝国大学大学院に入学し、高等師範学校の英語嘱託になる。1894年(明治27年)に愛媛県の尋常中学校の嘱託教員になり、赴任する。1895年(明治28年)には正岡子規と同宿し、運座を行う。1896年(明治29年)に熊本の第五高等学校に赴任し、「フランス革命」「ハムレット」「オセロ」を講義する。同年、中根鏡と結婚する。1897年(明治30年)に父・直克が死去する。この時期は漱石の大学院時代である。講師や嘱託教員を勤めているが生活のためのお金を得るためのようである。

筆者の2629歳は1971年(昭和46年)〜1974年((昭和50年)である。25歳の1970年(昭和45年)3月に東京農工大学工学部工業化学科大学院修士課程を卒業した。そして同年4月に水処理の会社である荏原インフィルコ(現荏原製作所)に入社した。荏原インフィルコに入社したのは吉野善弥先生の推薦による。会社では研究部(後の中央研究所)に配属され、研究部では第6研究室(鈴木英友主任研究員)に所属した。私は有満秀信研究員(当時)の下で、主として汚泥処理の研究の仕事を行うことになった。当時、第6研究室ではでは遊佐先生(後に顧問)の団塊凝集理論に基づく脱水機「デハイドラム」を開発し、ユーザーに売り込んでいた。この機械は鈴木英友主任研究員と田中繁正研究員が開発・商品化したものである。入社後しばらくはこの機械の試運転業務を手伝った。この機械は当初、主に砂利排水の汚泥処理に適用されていた。その後ヘドロ処理の問題が注目され、この機械を使った赤潮ヘドロ処理実験が行なわれた。私もこの実験に携わった。私が29歳の1974年((昭和50年)頃のことである。

 
9.海軍時代その3(ロシア留学)・・・29〜30歳(1897〜1898/明治3031年)
 

 まず1897年(明治30年)〜1898年(明治31)の日本の歴史を見てみよう。
 日清戦争(1894年(明治27年)7月〜1895年(明治28年)の後、ロシアとの戦争に備えた。1897年(明治30年)に金本位制を実施した。これは日本の経済力の誇示のためと考えられるが、朝鮮で産出される金が裏づけとなっていた。この年に労働組合も結成されている。
 翌
1898年(明治31年)に大隈重信と板垣退助が憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織した。しかし政府は間接消費税を新設し、大幅な増税(1899年には1893に比べ、税収17.3%増加)を行った。これは労働者や農民の生活を圧迫した。そして日本は国民の締め付けを強化するようになり、戦争への道をたどっていった。
 1900年(明治33年)には選挙法が改正され、治安維持法が公布された。同年、北清事変が勃発し、出兵する。伊藤博文が立憲政友会を結成する。また第二次産業革命がこの年から始まっている。
 1901年(明治34年)に幸徳秋水が社会民主党を結成する。この年には八幡製鉄が操業を開始している。
 1902年(明治35年)には日本はロシアをけん制するため、日英同盟を結んでいる。

さて広瀬武夫27歳の1895年(明治28年)3月に大尉に昇進し、1896年(明治29年)に磐城の航海長になった。朝鮮南岸で精密測量に従事する。ところで広瀬武夫がロシアに興味をいだき研究を始めたきっかけは、島田謹二著「ロシアにおける広瀬武雄」によると1891年(明治24年)に起きた大津事件のようである。またロシア語は八代六郎大尉からその初歩を学んだ。八代六郎大尉は1890年(明治23年)から1893年(明治26年)までの3年間、ウラジオストークでロシア語を学び、その後ロシア公使館付武官としてぺテルブルグに駐留した経験があり、ロシア語とロシアの事情に通じていた。そして広瀬武雄は30歳の1897年(明治30年)5月に軍令部諜報課部員となる。626日付の官報でロシア留学が決まった。実際にロシア留学したのは8月である。広瀬武雄がロシア留学のために出発する直前に出した次の簡単な書簡がある。


 
 

広瀬武夫がロシア留学直前に衛藤敦夫に送った親展至急の書簡。
両側:封筒/広瀬武夫から衛藤敦夫宛ての親展至急の書簡。(消印明治3082日)
中央:書簡/不一の手紙(明治3081日夜12時半に書いたもの)
注)広瀬武夫は1897年(明治30年)5月(当時30歳)に軍令部諜報課部員になっていたため、ロシアに行く詳しい事情を知らせる事が出来ず、このような内容で書簡を出したと思われる。


  書簡(原文)

不一

八月一日夜十二時半確認

武夫

書簡(現代語訳)

詳しいことを書けず、意を尽くせません

八月一日夜十二時半に書きました

武夫

なお、原文、読み下し文、現代語訳の解釈にあたっては土原ゆうき氏の協力を頂いた。

ところで「不一」は、「思いを十分に尽くさない」という意味で、手紙の結びに書く言葉である。この時、広瀬武夫は万感胸に迫るものがあったのではないかと思う。
 81日に東京を出発した広瀬武夫は海路でトルコ、パリを経由して826日にロシアに到着した。これからロシアにおける生活が始まる。翌1898年(明治31年)も、ロシアの生活に慣れることとロシア語の習得に励んだ。この間、約14カ月である。

 ところで、秋山真之は広瀬武夫に遅れること1年、1896年(明治29年)に横須賀に転属し、海軍水雷術練習所で水雷術を学び、横須賀水雷団第2水雷隊付になる。同年10月に大尉になる。秋山真之が28歳のときである。そして11に軍令部諜報課員になり、中国東北部で活動する。1898年(明治31年)にアメリカへ留学することになる。アメリカではワシントンにある海軍大学校校長野アルフレッド・セイヤー・マハンに師事した。ここで兵術の理論を研究する。1898年(明治31年)の米西戦争では観戦武官を務めた。ここで港の閉塞作戦を視察し、これが日露戦争の旅順港閉塞作戦のもとになったと言われている。翌1899年(明治32年)にはイギリス駐在となり、1月から8月の8ヶ月間にわたり、イギリス・ヨーロッパの状況を視察する。

一方、正岡子規は、子規は喀血後、無理を承知で仕事を優先し、そして俳句・短歌の世界を切り開いていった。1896年(明治29年)に子規庵で最初の句会を開き、1897年(明治30年)に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊している。1898年(明治31年)には子規庵で歌会を開催している。そして子規の病状は次第に悪化していった。

また夏目漱石は、1897年(明治30年)に父・直克が亡くなり、1898年(明治31年)に妻・鏡が自殺を図るという、不幸に会うが、翌1899年(明治32年)に長女・筆子が誕生し、文部省から英国留学を命じられる。

さて、私・衛藤正徳2930歳は1974年((昭和49年)〜1975年((昭和50年)になる。公害問題は1965年(昭和40年)頃から社会問題化してきた。そのひとつに湖水や海のアオコや赤潮の発生がある。湖水や海のアオコや赤潮の発生の原因が湖底や海底のヘドロが明らかにされるようになり、ヘドロ処理が行われるようになった。私が29歳の1974年((昭和49年)頃、赤潮対策としてヘドロ処理実験が行なわれた。私もこの実験に携わった。これは海底からヘドロを汲み上げ、台船の上に設置した機械(前述のデハイドラム)を使って脱水処理し、脱水ケーキは埋め立て処分し、ろ液はたしかろ過処理して放流したと記憶している。そして30歳の1975年((昭和50年)頃からベルトプレス型脱水機の研究開発を始めた。以後、ベルトプレス型脱水機の研究開発が主なテーマとなる。
2011216日記、衛藤正徳) 

 
 

10.海軍時代その4・・・3034歳(18981902/明治3135

 
 

まず1898年(明治31年)〜1902年(明治35)の日本の歴史を見てみよう。

1898年(明治31年)に大隈重信板垣退助が憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織した。しかし政府は間接消費税を新設し、大幅な増税(1899年には1893に比べ、税収17.3%増加)を行った。これは労働者や農民の生活を圧迫した。そして日本は国民の締め付けを強化するようになり、戦争への道をたどっていった。
 1900年(明治33年)には選挙法が改正され、治安警察法が公布された。同年、北清事変が勃発し、出兵する。伊藤博文が立憲政友会を結成する。また第二次産業革命がこの年から始まっている。
 1901年(明治34年)に幸徳秋水が社会民主党を結成する。この年には八幡製鉄が操業を開始している。1902年(明治35年)には日英同盟を結んでいる。これは、日本は露仏同盟を結んだロシアをけん制するため、一方イギリスは東アジアの利権をロシアから守るためである。

広瀬武雄30歳の1897年(明治30年)81日にロシア留学のため東京を出発した。ロシアには海路でトルコ、パリを経由して826日に到着した。この日からロシアにおける広瀬武雄の生活が始まった。ロシア到着の1897年(明治30年)8月から翌1898年(明治31年)にかけての約14カ月は、ロシアの生活に慣れることとロシア語の習得に費やされた。
 1899年(明治32年)には黒海の巡視旅行を行っている。そしてこの年に恋人となるアリアズナと運命の出合いをする。広瀬武雄32歳のときである。
 1900年には英仏独視察旅行バルト海沿岸視察旅行を行っている。またこの年、社交界で柔道を披露している。広瀬武雄は33歳で少佐に昇進する。
 1901年(明治34年)に広瀬武雄に帰朝命令が出される。広瀬武雄の思いより半年くらい早い帰朝命令であった。この年父・重武が亡くなる。重武66歳であった。
  またこの年ドイツに留学していた滝廉太郎から荒城の月の楽譜を送られ、ロシアのサロンで披露したと伝えられている。滝廉太郎が広瀬武雄に送ったと言われる「荒城の月」の楽譜を見てみたいものである。

上述の「荒城の月」を作曲した滝廉太朗は広瀬武雄の故郷である竹田市で少年時代を過ごした。1900年に発表された「荒城の月」(作曲:滝廉太郎、作詞:土井晩翠)は竹田市の岡城を題材にしている。滝廉太郎はドイツに1901年に留学するが、病気になり、翌年に無念の思いを胸に帰国することになる。滝廉太郎は1903年(明治36年)に「憾み(うらみ)」を残して24歳で亡くなる。滝廉太郎の銅像が竹田市の岡城址にあるが交響曲の想を練っているように見える。

 さて、1902年(明治35年)、広瀬武雄は帰国のため、1月ペテルブルグを出発し、極寒のシベリアを踏破し、ウラジオストーク・旅順を経て、3月末に日本の東京に帰着した。4月に竹田へ帰省し、父・重武の墓参りをする。5月に軍艦朝日の水雷長兼分隊長になる。海軍省で「シベリア及満州旅行談」を講演する。


広瀬武雄像/辻畑隆子氏作
/竹田市歴史資料館前

帰国後アリアズナと広瀬武雄文通を重ねた。この年の719日にアリアズナが義姉の春江に宛てた有名な手紙がある。広瀬武雄が訳しているが、アリアズナの思いがよく伝わってくる。アリアズナは清楚で知的な女性のようにおもわれる。

 ところで、秋山真之は広瀬武雄がロシア留学した翌年の1898年(明治31年)にアメリカへ留学することになる。アメリカではワシントンにある海軍大学校校長野アルフレッド・セイヤー・マハンに師事した。ここで兵術の理論を研究する。1898年(明治31年)の米西戦争では観戦武官を務めた。ここで港の閉塞作戦を視察し、これが日露戦争の旅順港閉塞作戦のもとになったと言われている。1899年(明治32年)にはイギリス駐在となり、イギリス・ヨーロッパの状況を1月から8月の8ヶ月間にわたり視察する。19008月に日本に帰国し、海軍省軍務局勤務となる。10月には旗艦「常盤」の乗艦勤務となる。
 さてイギリス駐在の秋山真之とロシア駐在の広瀬武雄は広瀬武雄の英仏独視察旅行(3月〜6月)のときフランスやイギリスで会い、一緒に軍事施設や軍港をしらべたり、写真をとったり、食事(ブイヤベース)をしたりしている。190110月に海軍少佐に昇任する。広瀬武雄の1年後である。その後、1902年に海軍大学校・戦術教官になり、903年には常備艦隊参謀になる。これ以後秋山真之は参謀の道を歩むことになる。

一方、正岡子規は、子規は喀血後、無理を承知で仕事を優先し、そして俳句・短歌の世界を切り開いていった。1896年(明治29年)に子規庵で最初の句会を開き、1897年(明治30年)に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊している。1898年(明治31年)には子規庵で歌会を開催している。そして子規の病状は次第に悪化していった。1900年に大量の喀血をし、病床に伏す。病床にありながらも子規の創作意欲は衰えず、「病床六尺」などの人生記録を書き残す。そして子規は1902年(明治35年)9月に辞世の句を詠んであの世に旅立つ。34歳であった。辞世の句には「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などがある。竹馬の友の秋山真之はイギリス駐在を終え、日本に戻り、海軍大学校の戦術教官になっていた時である。

また夏目漱石は、長女・筆子が誕生した1899年(明治32年)に文部省から英国留学を命じられる。19009月に横浜港を出航し、10月にロンドンに着く。翌1901年二女恒子が誕生する。この年池田菊苗や土井晩翠と親しく交わる。また子規の死を知る。1902年.スコットランドを旅行する。そして帰国の途につく。旅行した理由はなんだろうか?夏目漱石はこの二年後から小説を書くようになる。スコットランド旅行は漱石に小説を書く何かを与えたのではないか。

なお、私・衛藤正徳3034歳は1975年((昭和50年)〜1979年((昭和54年)になる。このころ経済の高度成長が行き詰まり、やがて貿易摩擦が生じる。1976年((昭和51年)にはロッキード事件が起こっている。1978年((昭和51年)に日中平和友好条約が結ばれている。この二つの出来事は田中角栄の暗と明であり、日本の暗と明である。
 私は1975年((昭和50年)頃からベルトプレス型脱水機の研究開発を始めた。以後、ベルトプレス型脱水機の研究開発が主なテーマとなる。私の所属していた部署は荏原インフィルコ(当時の社名)中央研究所第六研究室である。研究所長は井出、室長は鈴木英友である。ベルトプレス型脱水機の研究開発は有満秀信の提案による。研究開発は有満と相談しながら私が実際の研究開発を担当した。研究所での研究結果をもとに合理的な脱水メカニズムと独自性を考慮した基本設計案を提案した。一つ目はロールの条件(形状・大きさ・配置)であり、二つ目は前処理に汚泥の質的改善を果たす造粒操作の導入である。この前処理では小林武司の協力を得た。研究所の基本案をもとに、技術部が実際の機械設計を行った。技術部では当時部長だった山田昭和と実施設計の中島睦男の協力を得た。実際の機械設計にあたっては研究所と技術部の間で性能と経済性をマッチングするため何度も喧々諤々の議論を行った。また営業はカタログの制作から参画し、販売に力を尽くした。1975年((昭和50年)頃から始めたベルトプレス型脱水機の研究開発は多く人達の協力を得て、1977年に1号機が完成した。(敬称略)

20117月31日記、衛藤正徳)

 
 
11.海軍時代その5(日露戦争)・・・34〜36歳(1902〜1904
 

 まず1902年(明治35年)〜1904年(明治37)の日本の歴史を見てみよう。

日英同盟を結ぶ前年の1901年(明治34年)に駐露公使の栗野慎一郎が満州・韓国の支配権をめぐる対露交渉に力を尽くすが失敗に終る。(礎より引用。1903年という説もある。1902年(明治35年)に日本とイギリスは日英同盟を結び、露仏同盟を結んだロシアをけん制する。イギリスは東アジアの利権を守る意図があった。1903年は嵐の目の静けさのように大きな事件がなく過ぎる。ところで日露戦争の世論には「東大教授7人の意見書」などの戦争賛成論と「内村鑑三の意見」、「幸徳秋水の書簡」、「与謝野晶子の詩」などの戦争反対論があった。しかし世論は戦争賛成論に傾く。マスコミも同調する。
 1904年(明治37年)210日に日本とロシアは互いに宣戦布告を行い、ついに日露戦争が始まる。実際には26日に日本はロシアに最後通牒を発令し、28日にロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃を行なっている。224日に第一次旅順港閉塞作戦を行い、327日に第二次旅順港閉塞作戦を行なう。これらの作戦で実際の指揮をとったのが広瀬武夫である。出発前に秋山が来訪したが最後の別れになった。広瀬武夫はこの第二次旅順港閉塞作戦で戦死する。しかも予期した結果は得られず、成功に至らなかった。一方陸軍も旅順要塞などで苦戦を強いられていた。戦争の大勢を決めたのは1904527日〜28日に行われた日本海海戦と言われている。この時秋山真之が作戦参謀として活躍した。また日本は7月に樺太を占領した。
 そして日露両国はアメリカの仲介により、190595日、ポーツマス条約に調印し、1014日に批准した。条約の内容は「ロシアが日本の韓国に対する政治・経済・軍事上の優越権を認め、干渉しないことを約束する」ものである。
 かくして1904年(明治37年)210日から始まった日露戦争は19051014日に一応日本の勝利で終った。戦争は19カ月の期間と17億円の戦費を要し、多くの人命を失った。動員した兵力は109万人で戦死者が12万人である。戦費の大部分は戦時国債である。この日露戦争以後、第二次産業革命を迎え、資本主義の基礎ができる。また社会運動が盛んになる。この様な状況の中、日本は軍拡競争に走り、軍事大国の道をすすむことになる。一方、これまで抑圧されてきたアジアの国々には影響大きな与えた。

さて、広瀬武夫1901年に帰朝命令を受ける。そして1902年(明治35年)、広瀬武雄は帰国のため、1月ペテルブルグを出発し、極寒のシベリアを踏破し、ウラジオストーク・旅順を経て、3月末に日本の東京に帰着した。4月に竹田へ帰省し、父・重武の墓参りをする。軍艦朝日の水雷長兼分隊長を命じられる。海軍省で「シベリア及満州旅行談」を講演する。1903年(明治36年)1月に広瀬武雄は海軍戦術講究員として海軍大学校で2週間研究をしている。来るべきロシアとの海戦に備えた戦術研究であろう。広瀬武雄にとっては東京で過ごした最後の時間となった。この年の12月には軍艦朝日で佐世保港に帰港し、戦争に備えている。
 1904年(明治37)26日に連合艦隊は佐世保から出撃する。210にはロシアに対し宣戦布告をする。218日に旅順港閉塞作戦が決定する。旅順港閉塞作戦は有馬中佐の立案とされる。また当初参加することになっていた松村菊男大尉が負傷したため、広瀬武雄少佐がその代わりを務めることになった.216辞世の句を詠む。220日、報告丸に乗船し、第一次旅順港閉塞作戦を実行する。しかし作戦は失敗におわる。この時にはロシアのアリアズナ、マリア、ヴィルキッキ―少尉に手紙を送っている。
 319日に兄・勝比古へ書簡「七生報国」を送る。320日、福井丸に乗船し、第二次旅順港閉塞作戦を実行する。327日に任務を完了するが、離船する時、敵弾にあたり戦死する。この時も作戦は成功したと評価されていない。広瀬武雄は旅順港に向かう時、斎藤海軍大尉に「戦争回避のため、ロシア極東総督に面会し、戦争の利害得失を説き、降伏を勧めたい」と申し出たということである。(礎より引用)広瀬武夫は争いごとが嫌いな人間で、しかもアリアズナを始めとするロシアの人間を知り、またロシアの力も知っていたので、ロシアとの戦争を避けるほうが良いと考えたように思われる。しかしこの申し出は認められなかった。海軍上層部がいまさら対露交渉の必要なしと判断したのではないか?1901年(明治34年)に駐露公使の栗野慎一郎が対露交渉に失敗していたからであろう。広瀬武夫の申し出が認められ、実行されていたら、歴史は変わっていたかもしれない。

最後に、広瀬武雄が祭られている広瀬神社の写真を載せて終わりにする。ところで明治37330日の東京朝日新聞(たしか100円で購入)に「軍神広瀬中佐」の記事と似顔絵が掲載されている。広瀬武雄が戦死した3日後の新聞。広瀬武夫が「軍神広瀬中佐」と呼ばれるようになったのはこの記事によるものと思われる。ここにそれを掲載しようと思ったが、朝日新聞社に利用料として毎年2100円も支払わなければならず、記事と似顔絵の掲載は取り止める事にした。広瀬武夫の似顔絵は皆さまの頭のなかでご想像ください。

 
駅から
10分くらい歩くと石段があり、石段をのぼったところに広瀬神社はある。広瀬武雄の遺品が展示されている。

一方、秋山真之は、1902年(明治35年)7月に海軍大学校の戦術教官になる。1903年(明治36年)10月に常備艦隊参謀となる。1904年(明治372月)旗艦「三笠」に乗艦する。210日に対ロシア宣戦布告。旅順港閉塞作戦では先任参謀を務め、機雷敷設をおこない、さらにバルチック艦隊に対する迎撃作戦を立案し、実際に日本海海戦19045月)で勝利に導き、日本の勝利を決定づけた。9月に海軍中佐となる。
 秋山真之は相次いで大切な友人を失なった。2年前に竹馬の友・正岡子規(1902年(明治35年)9月没)を失い、いままた海軍の広瀬武雄(1904年(明治37年)327日戦死)を失った。秋山真之は秋山文学といわれるほどの名文家と言われたが、この悲しみをどのように言葉であらわしたのであろうか?
 その後1908年(明治41年)に海軍大佐になり、1913年(大正2年)に海軍少将になり、1917年(大正6年)海軍中将となる。軍人生活を全うし、翌年の1918年(大正7年)24日死去する。49歳であった。

また、夏目漱石1900年(明治33年)英国に留学し、クレイグ先生の教えを受ける。190210月にスコットランド旅行をするが、正岡子規のことが心に浮かんだことだろう。1903年(明治36年)に帰国する。帰国後、第一高等学校講師や東京帝国大学英文科講師そして明治大学講師になる。1904年(明治37年)頃から、小説を書き始め、1916年(大正5年)129日に49歳で死去するまで書き続け、「明暗」が最後の作品となった。
  夏目漱石の作品はおびただしい数に上るが、主な作品を以下に列挙する。
 1905年(明治38年)1月「吾輩は猫である」(「ホトトギス」に掲載)
 1906年(明治39年)4月「坊ちゃん」(「ホトトギス」)、9月「草枕」(「新小説」)
 1907年(明治40年)1月「野分」を(ホトトギス」)、6月「虞美人草
 1908年(明治41年)9月「三四郎
 1909年(明治42年)6月「それから」、9月満州・朝鮮旅行。10月「満韓ところどころ
 1910年(明治43年)3月「」、このころから持病の胃潰瘍が悪化する。また文学博士号を辞退する。
 1911年(明治44年)1月「ケーベル先生」
 1912年(明治45年・大正元年)1月「彼岸過迄」、12月「行人
 1914年(大正3年)4月「こころ
 1915年(大正4年)3月に京都旅行、6月「道草
 1916年(大正5年)5月に「明暗」、129死去する。49歳であった

ところで筆者の3436歳は1979年(昭和54年)〜1981年((昭和56年)である。
 当時の日本は低成長時代へ移行する時期であった。また貿易摩擦が問題化していたころである。そして産業は第三次産業中心に変わりつつあった。家電ブームが起こり、電気冷蔵庫とカラ―テレビはほとんのど家庭に普及した。自動車の普及率は約50%であった。1979年(昭和54年)に国際人権条約を批准し、国際社会の一員としてふさわしい国になった。しかし1980年、モスクワ・オリンピックへの参加を断念するという不幸な事件もあった。また湯川秀樹(物理)に続き、1981年、福井謙一(化学)がノーベル賞を受け、化学の分野でもレベルの高さを示した。
 さて、私は開発したベルトプレス型脱水機「デハイロール」について下水道協会や粉体工学や化学工学などの研究発表会で発表を行うと同時にA型、S型という高効率の新型の開発を行っていった。トータルの研究開発期間は1976~1987年の9年間にわたっている。その後、中央研究所から開発部に移動し、開発部で1987年〜1988年に上水道用の無薬注汚泥濃縮機「ハズカム・フィルター」を上水技術部と開発した。1989年に荏原製作所(当時)を退社した。これ以後、珈琲が第二の人生の仕事になる。
 珈琲の仕事は学生時代に父の手伝いとして始めたのが最初である。京王デパートにあったパウリスタのカウンター・スタッフである。パウリスタは1954年(昭和39年)~1977年(昭和52年)の13年間営業した。その後1987年(昭和62年)にキングスコーヒーをはじめ、1990年(平成2年)に(有)アメニティライフを設立し、自分の会社を立ち上げた。その後、スリランカをはじめ、イタリア、フランス、ハワイ、台湾、アメリカ合衆国(サンフランシスコ・サンディエゴ・ニューヨーク、ハワイ、韓国、カナダ、ブラジル、ドイツを訪れ、珈琲・紅茶などの研究を重ねた。そして今もよりハイグレードな珈琲をリーズナブルな価格で提供すべく奮闘している。
 最近、2011年(平成23年)311日に東日本大震災がおこり、津波が発生し、多くの被害をもたらした。同時に福島で原発事故がおこり、福島の地をはじめその周辺地域が放射能で汚染された。今、原発事故の収束と福島をはじめとする被災地の復興が始まろうとしているが、これには多額の費用と時間が予想されている。原発事故が早く収束し、被災地の復興が速やかに進むことを念じている。日本のエネルギーを放射能汚染のような二次災害のある原発に頼るのはあまりにも危険であることが明らかになった。原発事故の発生以来、日本はエネルギー問題に直面し、エネルギー戦略の再構築を迫られている。
 広瀬武夫と私は異なる時代にいきている。広瀬武夫は明治という時代に生き、対ロシア問題に直面していた。私は平成の時代に生き、原発事故とエネルギー問題に直面している。私は日本の100年後のあり方を考える今日この頃である。

 
12.おわりに
  広瀬武夫は日露戦争で亡くなったが、その精神は生きている。以前には「軍神広瀬中佐」と呼ばれていたが、最近では「人間広瀬武夫」と呼ばれるようになった。広瀬武夫は軍人として職務に忠実であったが、争いごとを好まず、戦争に反対であったと思われる。広瀬武夫について書きながら、疑問がわいてきて、疑問を考察する必要を感じた。同時に世界平和についても考察する必要を感じた。以下に記す。

(1)疑問についての考察

  まず、私がなぜ広瀬武夫について書いたか?その理由は三つある。一番目は私の父が広瀬武夫と従兄であったからである。二番目は広瀬武夫が日本人にも、外国人にも、男性にも、女性にも愛され、人気がある男だったからである。三番目はその理由を私なりに明らかにしたいと考えたからである。上述したように、私は広瀬武夫について書きながらいくつかの疑問がわいた。
 第一の疑問は「なぜ広瀬武夫は軍人になったのか?」である。広瀬武夫は争いごとが嫌いな性格で、父・重武は裁判官であるから、裁判官をめざしてもよかったと思うのである。裁判官ではなく、軍人になったことに若干の違和感を持った。しかしながら広瀬武夫は兄の後を追って、海軍士官学校にはいり、軍人になっている。広瀬武夫の頭の中には自身の経済的自立と日本国の独立があったので、軍人の道を選んだようだ。その背景には日本が外国からの侵略に神経を尖らせていたという当時の日本の情勢を考える必要があるように思う。

 第二の疑問は広瀬武夫は閉塞作戦に賛成だったのか?である。ロシアと和平交渉をしたいと思っていたくらいであるから、ロシアとの戦争には反対だったであろう。しかし秋山真之が閉塞作戦に賛成していたので閉塞作戦には賛成したのではないか?閉塞作戦以外に勝機を見出すのは難しいと思っていたと思われる。
 第三の疑問は広瀬武夫は閉塞作戦の実行を自分から志願したのか?志願したかかどうかはわからないが、広瀬武夫は閉塞作戦は必要と思い、実行役を引き受けたのであろう。
 第四の疑問は広瀬武夫は閉塞作戦をどのような気持ちで実行したのか?日本国を守るため、死ぬ覚悟で閉塞作戦に臨んだと思われるが、アリアズナのために生きて帰ろうと思っていたに違いない。
 第五の疑問はもし広瀬武夫が閉塞作戦で死なずに生きていたら、軍人を続けていただろうか?戦争をやめさせる最大限の努力をし、受け入れられない場合には軍人を辞め、アリアズナのために生きたのではないか?
 私は広瀬武雄の人間性について次の結論を得た。(1)広瀬武雄が明治に生きた一人の類まれな日本人であり、バランス感覚がすぐれた人間である。(2)争いごとを避け、平和的に解決することを常に考えていた人間である。(3)彼の生き方には、当時の日本をめぐる情勢と日本の体制と日本人の考え方が凝縮している。

(2)世界平和についての考察

 66回目の終戦記念日を迎える2011年の今の日本は地震・津波・原発事故が発生し、混乱をきたしている。そして日本は地震・津波・原発事故からの復興を模索している。明治維新ではなく平成維新が求められている。また、世界の平和がままならない。世界平和なくして世界の発展や活性化はなく、日本の復興や発展も活性化もない。広瀬武夫ならどう考えただろうか?平成維新の必要性を認め、世界平和に賛成したであろうと私は思っている。最後に、私の小論文「世界平和実現のために」を付記する。

世界平和実現のために
―今、日本がなすべきこと―
                                 衛藤 正徳
1.はじめに

日本は第二次世界大戦の太平洋戦争を起こし、敗戦した国である。日本が戦争をおこした推進力はなにか?その最大のものは、国の富国強兵策とそれを支持した国民であると思う。日本は明治(1868年)以降、富国強兵策を国の柱としてきた。すなわち、軍事力を増強し、領土を拡大し、国の政治・経済を安定化しようと、力の論理を行使してきた。日清戦争からはじまり、日露戦争を経て、太平洋戦争にいたる。
 日清戦争では漁夫の利で勝利した。日露戦争では運よく勝利した。しかし太平洋戦争では決定的な敗戦を喫した。そして国民は悲惨な生活を強いられた。戦争を良しとして、薦めたのは誰か?戦争の責任は誰にあるのか?戦争を起こしたのは政府・軍人であるが、国民の暗黙の了解もあったと思う。
 これまでの戦争は自国と相手国のことしか考えていなかった。しかし、これからの戦争は核戦争の時代。核が今5000発あるという。ボタンを押し間違えれば地球全体が核戦争になるだろう。もしミサイル攻撃を受けた場合、自然や人間に影響のない状態でこれを撃退できるのか?疑問である。戦争が始まってからでは遅いのである。このように考えると、これからは戦争をしないように、させないようにすることが必要不可欠である。不戦のネットワークを築いていくことが重要で大切である。

2.戦争についての考察

 戦争は、国と国との紛争がこじれ、外交手段では解決できず、軍事力を用いて自国の立場を有利に導こうとする行為である。国と国との紛争の原因は大きく分けると二つあると思う。一つは領土問題で、生活圏(生活権)の確保を目的とした領土問題と領土拡大(侵略)目的とした領土問題が考えられる。もう一つは国内問題で、貧困問題にともなう貧富の差の解消対策あるいは生活向上対策が考えられる。

2.1 戦争の原因
 歴史書にも出ているが、基本に生活が困難であるという貧困問題があり、それから出てきた富国強兵の思想と領土拡大策が戦争の原因であると思う。日本が明治以降に経験した四つの大きな戦争を例に、日本が参戦した原因を簡単に考察する。
(1)日清戦争
   領土拡大、富国強兵

(2)日露戦争
    日清戦争の延長
    ロシアの進出を阻止して、満州・朝鮮の利権を守るため
(3)第一次世界大戦
    日独戦争で参戦
    ドイツの脅威を除去し、国際的地位を高めるため
(4)第二次世界大戦と太平洋戦争
   
   ・アジアで日本が満州事変(1931年)を起こし、日中戦争(1937年)を始める。
   
日本の経済のいきづまりを打破するため
   ・ヨーロッパで独・伊が第二次世界大戦(1939年)を始める。            ・日・独・伊三国同盟(1940年)
    ドイツ・イタリアのファシズムと政権と手を結ぶ
   ・日本が米英を相手に太平洋戦争(1941年)をはじめる。
    日中戦争および太平洋戦争は日本がはじめた戦争である。

2.2戦争の問題点
(1)平時と戦時における矛盾
 個人は国という組織に属していて、国には憲法及び法律という規則がある。個人は法律という規則によって国に縛られる側面と守られる側面をもっている。平時では国は個人を守る存在で、法律を犯さなければ自由に生活できる。しかし、法律を犯せば、拘束され、罰せられる。最も重い犯罪は殺人であることは誰でも知っている。もっとも重い罰が与えられる。 しかし、戦争になり、戦時になると、平時の常識が反転する。平時では殺人は大罪であるが、殺人は当然の行為となり、その行為が英雄になることもある。戦争の大義名分は国を守るということであり、そのために殺人が行われる。戦争の実態は殺人である。また戦争では国という組織に個人が使われる。ここには人間の生き方において論理的矛盾が存在する。
(2)戦争の後遺症

 戦争の勝利国にも敗戦国にも後遺症がでる。敗戦国において後遺症はより大きい。日本の場合でみると、日清・日露戦争では勝利国だった日本は人間が驕り、高ぶるようになり、敗戦国を見下すようになった。日清戦争で敗戦国だった中国は勝利国の言う事を聞かざるを得なくなり、その領土を取られた。日露戦争では日露講和条約が結ばれ、ロシアは(イ)韓国に対する優越権、(ロ)遼東半島(含旅順・大連)の租借権、(ハ)南満州の鉄道と鉱山の権利、(二)南樺太の譲渡、(ホ)沿海州とカムチャツカの漁業権などを日本に譲渡した。第一次大戦では日本は中国に21カ条の要求を行い、これを認めないアメリカと対立が深まった。太平洋戦争では、敗戦国だった日本は領土を分割され、その上、アメリカに基地を提供せざるを得なくなった。その結果、基地の問題たとえば沖縄問題などが発生し、65年たった今でも、継続している。
(3)対戦国との関係(1)アメリカ
  ・日本は防衛の問題をアメリカに頼ってきた。おんぶに抱っこの状態。
   ・ジェームズ・シュレジンジャー元国防長官の証言:
  日本、「核の傘」縮小懸念「核政策の提言(
20095月)のために開かれた諮問委が意  見を聴いた日本政府当局者から「日本を守るための核の傘を米国は維持していくのか」  と懸念を表明された。」(朝日新聞200911月6日)
(4)対戦国との関係(2)ソ連(ロシア)
(5)対戦国との関係(3)韓国・北朝鮮
(6)対戦国との関係(4)中国・台湾

3.アメリカの世界平和に対する考え方
(1)核なき世界の構築
    通常兵器による戦争は除外
(2)アメリカの防衛の基本はアメリカを守ること
   ・テロに対する恐怖
    テロの理由?その底流は? 貧しさ?
(3)力の論理
    平和を維持するためには武力行使も必要。
    最強兵器をもっていることが相手を威圧し、戦争抑止力として働く
    そのために、武力(軍事力)を準備する。
    軍事力として最強兵器の核兵器(あるいは細菌兵器?)をもつ
    オバマ米大統領のプラハ演説「核なき世界へ具体的措置をとる」
    ウイリアム・ペリー(元クリントン政権の国防長官)の提言
   「米国は核なき世界に行き着くまでは、米国と同盟国のために安全で信頼できる能力の  高い核抑止力を維持する。アメリカの核保有の唯一の目的は米国や同盟国の存在を危険  にさらす攻撃対する抑止に限る」((朝日新聞200911月8日)
    米軍制服組トップのマレン統合参謀本部長(海軍大将)が核先制不使用を受け入れ  られないと拒否の考えを明らかにした。(朝日新聞20091024日)

4・平和実現のために日本が今、なすべき事
4.1.日本の防衛にたいする基本的考え方
(1)日本の防衛の現状
   ・自分の国は自分で守るのが基本だが、実情は日本の防衛の問題をアメリカに頼ってき  た。おんぶに抱っこの状態。
(2)日本の防衛にたいする基本的考え方
   ・守り方にはいろいろなやり方がある。
   ・力の論理でいくか、外交でいくか
    力の論理でいくと戦争は避けられない
    外交でいけば戦争は避けられる
   ・一番大切なことは日本自らは戦争をしないこと、また他の国に戦争をさせないこと。    これをどうやって達成するか
   ・戦争を引き起こした国として平和を構築する責任がある
   ・基地の撤廃―段階的縮小(沖縄から)
   ・アメリカに日本の防衛を頼るのは危険
   ・防衛問題でアメリカに頼らない
   ・日本は独自の政策(防衛問題を含め)
4.2.日本の憲法と戦力不保持の原則
   ・日本の憲法の尊重
     戦力不保持の原則
   ・現状と矛盾
   ・日本人の考え方に「決めたことは守る」が欠如。
    ご都合主義になっている。
    日本と日本人の問題点
4.3.軍事力(戦力)は戦争抑止力となるか?
4.4.世界平和で日本が貢献する
   ・日本からの提案・・・「不戦のネットワーク」と「皆が豊かになる道」の構築        両者は車の両輪
     上記の課題についての具体的な方策はこれから考える。

5.不戦のネットワーク
  「不戦のネットワーク」を構築する・・・これからの課題

6.皆が豊かになる道
  「皆が豊かになる道」を構築する・・・これからの課題

 この論文はまだ不十分な内容であるが、基本は書いたつもりである。今回書けなかった課題については次回の報告としたい。疑問・質問をお寄せいただけると有難い。

以上。(201008.23初稿、2010.1026修正、20110808.追加修正)

参考文献:

年表:
1.広瀬武夫簡易年表 ホームページ:月にむら雲花に風 土原ゆうき
2.広瀬武夫年表 ホームページ:月にむら雲花に風 土原ゆうき
3.広瀬武夫年表 衛藤 正徳 201004.21作成、05.26.修正

文献:
1.広瀬重武宛 衛藤敦夫書簡 明治1517日(未発表)
     表:飛騨国高山裁判所 広瀬重武殿 平安
     裏:東京本所松井町一丁目25番地 山縣方 衛藤敦夫
     内容:高山裁判所が岐阜に合併することを知り、その状況を気遣う手紙。
2.衛藤敦夫宛 広瀬武夫書簡  明治25717日(未発表)
     表:衛藤敦夫様 単信
     裏:兵庫港碇泊 軍艦筑波 広瀬武夫 717
        消印1)25718日 摂津・神戸兵庫
           2)25720日 筑後・久留米
           3)25722日 豊後・竹田
     内容:広瀬武夫が兄・広瀬勝比古に手渡したと思われる手紙。
          それを兄・勝比古が投函したものと思われる(兄・勝比古の添え書きあり)。
          広瀬重武1836(天保7)−1901(明治3466歳で没)56歳のとき。
3.航南私記 明治2429年(18911896
4.明治34年後半期における任務実行に関する予定報告
5.シベリア及満州旅行報告書
6.衛藤敦夫宛書簡  広瀬武夫書簡 明治3081日夜12時半確認(未発表)
    表:衛藤敦夫様 親展至急
    裏:東京 広瀬武夫
       消印1)3082日 武蔵・東京西?保
       消印2)308月?日 豊後・竹田
    内容:ロシアに出発するときに衛藤敦夫に送った手紙と思われる。
7.寛治加藤宛書簡  明治37319
  (広瀬武夫全集・下/書簡5日露戦争時代(明治37P379
8.軍神廣瀬中佐の新聞記事 明治37330日 東京朝日新聞
  注)写真でなく似顔絵。良く似ている
9.広瀬武夫全集上・下
    下・書簡5・日露戦争時代(明治37P379 353明治37319日加藤寛治あて
    下・書簡5・日露戦争時代(明治37P380 353明治37319日八代六郎あて
    注)死を覚悟して事にあたる決意の様子がわかる。
10.軍神広瀬中佐詳伝 大分県教育会編纂(著作者/大分県共立教育会代表者:大久保利武)
     明治3828日発行(発行兼印刷者:金港堂書籍株式会社)
11.廣瀬中佐の少年時代 昭和11526日 放送の原稿
     注)高崎林治氏から頂戴したもの。高崎臥牛の署名あり。
12.軍神広瀬中佐書簡集 昭和14
   (巻頭言)     佐藤次比古・池田三比古編 広瀬神社社務所発行
13.広瀬家の人々 高城 知子 昭和558月 新潮社
14.礎 ISHIZUE / 廣瀬武夫 廣瀬武夫百年忌祭ならびに戦没者合同慰霊祭奉賛会編 
     平成17527日 広瀬神社発行
     注)春山氏から頂戴したもの。
15.広瀬武夫−旅順に散った「海のサムライ」− 櫻田啓 20096月 PHP研究所
16.「坂の上の雲」と司馬遼太郎
17.広瀬勝比古 フリー百科事典「ウイキぺディア」
18.滝廉太郎年譜 大分県竹田市
19.滝廉太郎記念館パンフレット 大分県竹田市
20. ロシアにおける広瀬武夫(上・下) 島田謹二著 朝日選書(57・58)
21.国際人・廣瀬武雄 童門冬二ら(13名)著 PHP研究所
22.漫画・廣瀬武雄 佐々木彰治漫画 桜田啓・川村秀・春山和典監修 PHP研究所
23.日本の歴史がわかる本{幕末・維新〜現代編} 小和田哲男著(株)三笠書房

作成者:衛藤正徳 20100426.作成、20100428.修正、20110820.修正、

 
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