まず1898年(明治31年)〜1902年(明治35)の日本の歴史を見てみよう。
1898年(明治31年)に大隈重信と板垣退助が憲政党を結成し、最初の政党内閣を組織した。しかし政府は間接消費税を新設し、大幅な増税(1899年には1893に比べ、税収が17.3%増加)を行った。これは労働者や農民の生活を圧迫した。そして日本は国民の締め付けを強化するようになり、戦争への道をたどっていった。
1900年(明治33年)には選挙法が改正され、治安警察法が公布された。同年、北清事変が勃発し、出兵する。伊藤博文が立憲政友会を結成する。また第二次産業革命がこの年から始まっている。
1901年(明治34年)に幸徳秋水が社会民主党を結成する。この年には八幡製鉄が操業を開始している。1902年(明治35年)には日英同盟を結んでいる。これは、日本は露仏同盟を結んだロシアをけん制するため、一方イギリスは東アジアの利権をロシアから守るためである。
広瀬武雄は30歳の1897年(明治30年)8月1日にロシア留学のため東京を出発した。ロシアには海路でトルコ、パリを経由して8月26日に到着した。この日からロシアにおける広瀬武雄の生活が始まった。ロシア到着の1897年(明治30年)8月から翌1898年(明治31年)にかけての約1年4カ月は、ロシアの生活に慣れることとロシア語の習得に費やされた。
1899年(明治32年)には黒海の巡視旅行を行っている。そしてこの年に恋人となるアリアズナと運命の出合いをする。広瀬武雄32歳のときである。
1900年には英仏独視察旅行とバルト海沿岸視察旅行を行っている。またこの年、社交界で柔道を披露している。広瀬武雄は33歳で少佐に昇進する。
1901年(明治34年)に広瀬武雄に帰朝命令が出される。広瀬武雄の思いより半年くらい早い帰朝命令であった。この年父・重武が亡くなる。重武66歳であった。
またこの年ドイツに留学していた滝廉太郎から荒城の月の楽譜を送られ、ロシアのサロンで披露したと伝えられている。滝廉太郎が広瀬武雄に送ったと言われる「荒城の月」の楽譜を見てみたいものである。
上述の「荒城の月」を作曲した滝廉太朗は広瀬武雄の故郷である竹田市で少年時代を過ごした。1900年に発表された「荒城の月」(作曲:滝廉太郎、作詞:土井晩翠)は竹田市の岡城を題材にしている。滝廉太郎はドイツに1901年に留学するが、病気になり、翌年に無念の思いを胸に帰国することになる。滝廉太郎は1903年(明治36年)に「憾み(うらみ)」を残して24歳で亡くなる。滝廉太郎の銅像が竹田市の岡城址にあるが交響曲の想を練っているように見える。
さて、1902年(明治35年)、広瀬武雄は帰国のため、1月ペテルブルグを出発し、極寒のシベリアを踏破し、ウラジオストーク・旅順を経て、3月末に日本の東京に帰着した。4月に竹田へ帰省し、父・重武の墓参りをする。5月に軍艦朝日の水雷長兼分隊長になる。海軍省で「シベリア及満州旅行談」を講演する。 |
広瀬武雄像/辻畑隆子氏作
/竹田市歴史資料館前
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帰国後アリアズナと広瀬武雄は文通を重ねた。この年の7月19日にアリアズナが義姉の春江に宛てた有名な手紙がある。広瀬武雄が訳しているが、アリアズナの思いがよく伝わってくる。アリアズナは清楚で知的な女性のようにおもわれる。
ところで、秋山真之は広瀬武雄がロシア留学した翌年の1898年(明治31年)にアメリカへ留学することになる。アメリカではワシントンにある海軍大学校校長野アルフレッド・セイヤー・マハンに師事した。ここで兵術の理論を研究する。1898年(明治31年)の米西戦争では観戦武官を務めた。ここで港の閉塞作戦を視察し、これが日露戦争の旅順港閉塞作戦のもとになったと言われている。翌1899年(明治32年)にはイギリス駐在となり、イギリス・ヨーロッパの状況を1月から8月の8ヶ月間にわたり視察する。1900年8月に日本に帰国し、海軍省軍務局勤務となる。10月には旗艦「常盤」の乗艦勤務となる。
さてイギリス駐在の秋山真之とロシア駐在の広瀬武雄は広瀬武雄の英仏独視察旅行(3月〜6月)のときフランスやイギリスで会い、一緒に軍事施設や軍港をしらべたり、写真をとったり、食事(ブイヤベース)をしたりしている。1901年10月に海軍少佐に昇任する。広瀬武雄の1年後である。その後、1902年に海軍大学校・戦術教官になり、903年には常備艦隊参謀になる。これ以後秋山真之は参謀の道を歩むことになる。
一方、正岡子規は、子規は喀血後、無理を承知で仕事を優先し、そして俳句・短歌の世界を切り開いていった。1896年(明治29年)に子規庵で最初の句会を開き、1897年(明治30年)に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊している。1898年(明治31年)には子規庵で歌会を開催している。そして子規の病状は次第に悪化していった。1900年に大量の喀血をし、病床に伏す。病床にありながらも子規の創作意欲は衰えず、「病床六尺」などの人生記録を書き残す。そして子規は1902年(明治35年)9月に辞世の句を詠んであの世に旅立つ。34歳であった。辞世の句には「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」などがある。竹馬の友の秋山真之はイギリス駐在を終え、日本に戻り、海軍大学校の戦術教官になっていた時である。
また夏目漱石は、長女・筆子が誕生した1899年(明治32年)に文部省から英国留学を命じられる。1900年9月に横浜港を出航し、10月にロンドンに着く。翌1901年二女恒子が誕生する。この年池田菊苗や土井晩翠と親しく交わる。また子規の死を知る。1902年.スコットランドを旅行する。そして帰国の途につく。旅行した理由はなんだろうか?夏目漱石はこの二年後から小説を書くようになる。スコットランド旅行は漱石に小説を書く何かを与えたのではないか。
なお、私・衛藤正徳の30〜34歳は1975年((昭和50年)〜1979年((昭和54年)になる。このころ経済の高度成長が行き詰まり、やがて貿易摩擦が生じる。1976年((昭和51年)にはロッキード事件が起こっている。1978年((昭和51年)に日中平和友好条約が結ばれている。この二つの出来事は田中角栄の暗と明であり、日本の暗と明である。
私は1975年((昭和50年)頃からベルトプレス型脱水機の研究開発を始めた。以後、ベルトプレス型脱水機の研究開発が主なテーマとなる。私の所属していた部署は荏原インフィルコ(当時の社名)中央研究所第六研究室である。研究所長は井出、室長は鈴木英友である。ベルトプレス型脱水機の研究開発は有満秀信の提案による。研究開発は有満と相談しながら私が実際の研究開発を担当した。研究所での研究結果をもとに合理的な脱水メカニズムと独自性を考慮した基本設計案を提案した。一つ目はロールの条件(形状・大きさ・配置)であり、二つ目は前処理に汚泥の質的改善を果たす造粒操作の導入である。この前処理では小林武司の協力を得た。研究所の基本案をもとに、技術部が実際の機械設計を行った。技術部では当時部長だった山田昭和と実施設計の中島睦男の協力を得た。実際の機械設計にあたっては研究所と技術部の間で性能と経済性をマッチングするため何度も喧々諤々の議論を行った。また営業はカタログの制作から参画し、販売に力を尽くした。1975年((昭和50年)頃から始めたベルトプレス型脱水機の研究開発は多く人達の協力を得て、1977年に1号機が完成した。(敬称略)
(2011年7月31日記、衛藤正徳)
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