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岡城址 |
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岡城は、緒方三郎惟栄(これよし)が1185年(文治元年)に築城したと伝えられている。(「豊後国志」による。) その後、南北朝中期に大友の氏族「志賀氏」が直入郡に進出し、1369年(応安2年)以降、志賀氏の居城となった。志賀氏の時代は1593年(文禄2年)まで17代200余年の間続いた。翌1954年(文禄3年)に中川秀成が入封し、近世の城郭の形態を整え、岡藩(禄高は7万3千石)と呼ばれた。中川氏13代275年間続いたが、1869年(明治2年)の藩籍奉還により城を退去し、1874年(明治3年)の入札・払い下げで城の建物はすべて取り壊された。
岡城は別名臥牛城と呼ばれる。種別は平山城式で海抜325mにある。城の構成は、御廟(山城的殿舎)と本丸、二の丸、三の丸(平山城的殿舎)と西の丸(平城的殿舎)の3区域からなっている。
岡城はねずみ返しとよばれる石垣で難攻不落を誇り、約400年前の天正14年から15年に亘り、島津氏が約3万の兵で3回に及び攻撃したが、ついに落城しなかった。秀吉から感謝状が贈られている。
筆者から一言:岡城の石垣の見事さには目を見張るばかりである。またここからの眺めは素晴らしい。百聞は一見にしかずである。ゆっくり歩いて見学すると一日かかる。
参考:
1.岡城址案内図,(竹田市)
2.参考:
1.御客屋敷パンフレット(竹田市)
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御客屋敷 |
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通常御客屋と呼ばれる。御客屋敷は岡藩時代他藩の使者をお迎えし、お泊めした所。迎賓館。大きな岩を背にした枯山水の立派な庭園がある。庭園は庭に面した広い板の縁側からのんびりと眺められる。屋敷の中の柱は太く、黒光りしていている。その柱には刀傷が残されている。今、茶房御客屋としてお茶(抹茶)や食事(だんご汁など)ができる。
ここは一時期、祖父・衛藤敦夫の居宅になっていた。その後、父の従兄弟の佐藤次比古が住んでいた。次比古の時にここで長い夏休みを過ごしたことがある。広い縁側のふき掃除と五右衛門風呂の風呂焚きが私の日課だった。
参考:
1.御客屋敷パンフレット(竹田市) |
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広瀬神社と広瀬武夫中佐の銅像 |
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広瀬神社へは豊後竹田駅から竹田橋を渡り、古町通りを真っすぐ行き、突き当たったところを右に曲がると、神社の石段の下に着く。ここに広瀬中佐の胸像がある。広瀬神社は高い石段の上にある。広瀬神社は厳かな感じがする神社である。広瀬武夫中佐と竹田出身の戦死者を祭っている。広瀬武夫中佐に係わる展示品もある。
筆者の父の従兄弟の佐藤次比古が広瀬神社の神主を一時期していた。そんな関係で筆者は広瀬神社で佐藤次比古からお祓いをしもらったことがある。良い思い出である。現在の宮司は岩屋刑部氏である。
広瀬武夫中佐の墓は茶屋の辻にある。豊後竹田駅と岡城址の中間くらいで御客屋の東側に位置する。歩くと30分くらいかかる。
参考:
1.竹田市周辺ガイド(竹田市)
2.大分県内文化財の栞(池田三比古) |
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旧竹田荘と田能村竹田の墓 |
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旧竹田荘は日本の南画を代表する田能村竹田の旧居です。田能村竹田はのお墓は広瀬武夫中佐の墓と同じ茶屋の辻にある。
田能村竹田は1777年に竹田で藩医の家にうまれる。12歳のころから医師の道に進み、18歳ころから詩画に親しみ、写実性と高潔な風格を持つ南画(文人画)を確立した。代表作に南画の最高峰といわれる「「亦復」「楽帖」がある。
参考:
1.御客屋敷パンフレット(竹田市)
2.田能村竹田年譜(財団法人田能村竹田顕彰会) |
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