衛藤六蔵物語 「ある珈琲鑑定士の生涯」
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1.はじめに
2.衛藤六蔵とマジックビーン
3.衛藤六蔵の故郷は豊後竹田
4.豊後竹田の町とたべもの
5.子供時代
6.水産講習所時代
7.缶詰協会時代
8.ブラジル時代
9.旧サントス・コーヒー取引所の今
10.ブラジルコーヒー宣伝部時代
11.セストコーヒー時代その1〜3
12.京王パウリスタ時代
13.おわりに

2008.6.14


衛藤六蔵物語 その12 「「京王パウリスタ時代」(1964年〜1978年)」

  1964年(昭和39年)に(有)パウリスタを設立し、代表取締役に就任する。パウリスタ・コーヒーショップを新宿・京王デパート7Fに開く。六蔵が61歳の年である。これが最後の仕事となる。
 この仕事を立ち上げるには多くの協力者がいた。主な方は日東珈琲(株)長谷川主計、長尾、田仲啓二などである。
 長谷川主計はパウリスタの商標権をもっている日東珈琲(株)の当時の代表取締役である。
 長尾は大阪出身の商人で、目先の聞く人であった。金儲けの方法や車についていろいろと教えていただいた。車は自分の足という感覚であった。ルノーの安い中古車を乗り回していた。筆者はそれを譲ってもらって乗っていた。ルノーはリヤー・エンジン方式の車で、性能が良く、乗りやすい車であった。スタイルも抜群で、車体はスピードを出すと安定感が増した。壊れそうでいて壊れない車であった。いまでもこういう車に乗ってみたいと思う。また、利殖法として自分が勤めている会社の株を買うことを勧められた。
 田仲啓二は小生の母・三保の弟にあたる人で、経理に詳しく、京王パウリスタの経理を補佐した。田仲啓二は炭鉱の仕事、土管の仕事(愛知陶管)、ヒューム管(大東コンクリート)の仕事のなどのいろいろな仕事を経験してきた人である。私が小学生の頃には土管(愛知陶管)の仕事をしていて土管が庭にごろごろと転がっていた。直径1m位の土管もあった。飲料水のろ過設備も土管で作られていた。また高校生のころには大宮にあった大東コンクリートのヒューム管工場でアルバイトをさせてもらった。コーヒーの仕事はパウリスタが最初だったと思われる。
 父の六蔵は金に関しては大雑把というか、淡白というか、儲けに関してあまり緻密な計算はしなかった。経理事務は母・三保が担当していた。パウリスタが利益を計上できたのは前述の田仲啓二のおかげと思う。

 パウリスタ・コーヒーショップは最初京王デパートのたしか6回に大きなフロアーを借りて営業していた。その後、デパートの模様替えの時に、7階の小さいフロアーに移転させられた。この7回の店は低価格・高回転タイプの店で、今の立ち飲みコーヒーショップの原型のようなものであった。小さいテーブルと小さめの椅子がフロアー全体にところ狭しという感じで置かれていた。通常の業務はカウンターの中に男性2人、フロアーに女性2人の計4人のスタッフで行い、父・六蔵も毎日管理者として店に出ていた。忙しいときにはレジをしていた。この店はセルフサービスではなく、女性スタッフがお客様のテーブルにコーヒーを運ぶサービスをしていた。その当時のスタッフに佐藤、和田、五十嵐ら(以上カウンター・スッタフ)や山崎、丸山ら(以上ホール・スタッフ)がいた。手早く、正確なしごとぶりが印象にのこっている。筆者は大学生のころで、アルバイトの形でよく手伝いをさせられた。仕事はおもにカウンターの洗い場であった。ここでコーヒーの入れ方やその他のメニューの作り方も覚えた。なお、コーヒーは深煎りをネル・ドリップで抽出していた。苦味はあるがまろやかで、酸味は少なく、バランスが良く、しっかりとした味のある香り高いコーヒーであった。カウンター・スタッフのうち、五十嵐は現在、「は山」という喫茶店を経営している。彼とは時々会い、珈琲について情報交換を行なっている。
 昭和52年(1977年)、13年間営業したパウリスタ・コーヒーショップを共同出資者日東珈琲(株)へ譲渡した。六蔵が74歳の時である。
 昭和53年(1978年)1月、衛藤六蔵は75歳で冥土へ旅立った。水産の仲間が入院中はお見舞いにたびたびあらわれ、葬儀にも大勢駆けつけてくれた。さらに、小冊子「衛藤六蔵君を偲ぶ」まで創ってくれた。良き友人に恵まれた一生であった。(完)

                                          平成20年6月14日衛藤正徳(記)


2008.5.13


衛藤六蔵物語 その11-3 「「セストコーヒー時代その3」(1948年〜1964年)」

 1948年(昭和23年)には日東珈琲(株)の顧問に就任する。セストコーヒー研究所の仕事として1952年(昭和27年)に「コーヒーエキスの製造法」という特許を出願している。これは液状のインスタントコーヒーのようなものである。この特許は1953年(昭和28年)の特許公報(特許出願公告:昭28-5088)に公告されている。さらにこの特許にもとづいた商品(コーヒー糖(コーヒーキューブ))を開発し、これを1952年(昭和27年)の11~12月に日本橋・白木屋で開催された「コーヒー祭り」に出品している。評判のほどはどうだったのだろうか?
 また、ポケッティを発明し、世に出した。これは底部にろ紙を装着した円筒形の容器の中に本物のコーヒー粉を入れて密封した簡易コーヒードリッパーである。旅行先などでドリップコーヒーを楽しむために開発したものである。筆者も作るのを手伝わされた。しかし、時代のニーズより先行していたためか、あまり売れなかったようである。筆者が小学生の時である。
 六蔵はI.B.C:ブラジルコーヒー院(1952年設立1990年廃止)の顧問も勤めている。1960年(昭和35年)には、第4回大阪国際見本一(4月9~26日)のブラジル館のコーヒーの試飲を指揮している。約10万杯飲まれたと当時の新聞に報じられている。翌年の1961年(昭和36年)に開催された第4回東京国際見本一(4月17~57日)に筆者はブラジル館を訪れ、濃いブラジルコーヒーを飲んだ記憶がある。筆者が高校生のときである。
 コーヒー以外に水産の仕事とも縁を繋いでいる。1949年(昭和24年)には錦鯉の輸出を手伝っている。これは同年812日の産業経済新聞で報じられている。1952年(昭和27年)には日本養魚株式会社を設立している。筆者が小学生のときに、湧き水の豊富なところに自宅を構えた。ここに池をつくり、虹鱒や錦鯉を飼っている。
 1964年(昭和39年)に最後の仕事となるパウリスタコーヒー店を新宿・京王デパート7Fに開く。六蔵が61歳の年である。(次回に続く)

                                          平成20年5月13日衛藤正徳(記)

2008.3.24


衛藤六蔵物語 その11-2 「「セストコーヒー時代その2」(1947年〜1948年)」
 1947年以降は六蔵が珈琲の復活をめざした戦後の時代である。
 1947年(昭和22年)7月に六蔵はセストコーヒー研究所を設立し、再び珈琲の仕事を始めている。同年、コーヒーショップ「セスト」を銀座7丁目の裏角に開店している。
 井筒は銀座の灯火その八でこの店のことを次のように書いている。「銀座にあった珈琲店のなかで、この話こそは是非残しておきたいと思う。それは筆者が過去った青春の断片を思い浮かべ、時がたった今日も美しい夢がみられるからだ。前述したアッスムソンのブラジル珈琲で、活躍した人々の中に衛藤六蔵のあったことにふれたが、彼は若い頃ブラジルに渡って、珈琲の研究に従事し、日本に於けるブラジル政府公認のコーヒー鑑定者としての資格を得ていた。帰日後アッスムソンのもとで、技術部専任者として、本格的なブラジル珈琲の技術指導に当たっていたが、アッスムソンが帰国すると、その後銀座七丁目の裏角で、セストという珈琲専門の喫茶店を開いた。セストは六蔵の六という意のポルトガル語である。三米程の間口で、奥は巾の狭いカウンターでいっぱいになる程の小さい構えであったが、出す珈琲は恐らく今日では味わうことの出来ぬ程本格的なブラジル珈琲であった。彼がブラジルから帰国する時持ち還って来た珈琲沸器(カフェアーン)は、一種のエスプレッソ方式の基本型で、サントスを細かに挽いた粉に、この沸器から出る強い蒸気を吹き込むと、点滴する香りの高い強く濃い珈琲が出来る。それを小さなカップに受けて、ミルクを加えず甜菜糖を入れて供されるもので、芳香の立った一杯の珈琲は、よくその店の表にまで馥郁たる香を発散し、その味の旨さは他に比類するものがなかった。炎熱の国南米の空気がさながら辺に漂ようであり、この珈琲こそ、一杯は憩いのため、二杯は歓楽の為、三杯目は剣のためというブラジルにある格言のとおり、強烈なものであった。」                                                                                                                         平成20年3月24日衛藤正徳(記)

2008.3.24

衛藤六蔵物語 その11-1 「セストコーヒー時代その1」(1938年〜1947年)

 1938年から1947年までは六蔵にとって戦争中の時代である。
 1938年(昭和13年)1月にブラジルコーヒー宣伝本部が閉鎖される。1939年(昭和14年)に第2次世界大戦が始まり、1940年(昭和15年)12月にはブラジルコーヒー宣伝本部は解散することになる。
 さらに1941年(昭和16年)に日本は第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入している。この年に六蔵は帝国栄養食品(株)を設立している。栄養食品やチコリーによる代用コーヒーの研究開発を行なっている。1940年ごろに「コーヒー添加料としてチコリーの効用」(エス・ダブリュー・オリバー(S.W.Oliver)著)という文献を入手している。
 1943年(昭和18年)5に衛藤六蔵は田仲三保と結婚している。母の三保は1914年(大正3年)8月4日に熊本生まれた。性格は一言でいうと冷静沈着で心の強い人である。短歌・俳句が趣味である。こんな俳句を残している。
 しずしずと春の足音梅開く
 由布岳をのぞみていこう赤とんぼ

 筆者が生まれたのは1944年(昭和19年)である。父・六蔵に確かめていないが、帝国栄養食品(株)を設立したのは筆者の誕生とも関係がありそうだ。
 1945年(昭和20年)8月に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終戦になり、1947年(昭和22年)には帝国栄養食品(株)を解散している。
                                 平成20年3月24日(記) 6月8日(修正) 衛藤正徳


2008.2.20.

衛藤六蔵物語 その10 「ブラジルコーヒー宣伝部時代」(1933年〜1947年)

 六蔵がブラジルから帰国したのは1933年(昭和8年)11月である。この時の様子を前述の酒井啓彰と坂本兼次は「大きなポスターのようなコーヒー鑑定人の免状を貰って帰国し得意だった」と書いている。
 六蔵が帰国する9ヶ月前の1932年(昭和7年)8月にはブラジルコーヒー宣伝販売本部が開設され、A.A.アッス ムソンによる日本におけるブラジルコーヒーの宣伝活動(第4回目)が開始されている。帰国した六蔵は1934年(昭和9年)四月からブラジルコーヒー宣伝販売本部(技術部門)に勤務している。ブラジルコーヒー宣伝販売本部開設と六蔵の帰国とは無縁ではない。
 ブラジルコーヒー宣伝販売本部のことは銀座の灯その八(井筒一黄著)に詳しく書かれている。その内容を簡単に記すと、アッスムソンが日本に来た目的は上述のようにブラジルコーヒーの拡販である。ブラジルコーヒー宣伝販売本部が開設ころはパウリスタも往年の勢いが衰えた時期でコーヒーの需要が伸び悩んでいた時期である。日本人のスタッフには増田和一、大道久雄、衛藤六蔵,土屋幸雄、そして優秀な女性陣がいる。また画期的な宣伝方法が採用されている。藤田嗣冶画伯の大壁画(大地)を壁面に描いたり、容姿端麗で珈琲の知識を教育された良家の子女を第一線に送り出すなどなど。藤田嗣冶画伯の大壁画(大地)は藤田組の手によってブラジルから36年ぶりに日本に戻り、昭和46年2月に日本橋三越本店で公開されている。
 また日本人のスタッフはブラジル珈琲本部アロマ会という会を作っている。筆者も1度か2度くらいアロマ会の人たちにお会いしたことがある。昭和46年正月のブラジル珈琲本部アロマ会員名簿には次の20人の名前が記されている。大道久雄、衛藤六蔵、増田和一、大塚健吉、土や幸夫、関谷四郎、浅海正夫、宮島市太郎,茅野健児,三谷兼雄、一二三亮、柏木園子、松江輝子、三林節子、新保京子、中島千枝子、石沢光沢、鈴木百合子、中村遼子、飯泉貞子(敬称略)である。皆、素晴らしい方々である。またコーヒーの焙煎加工はパウリスタ(長谷川主計)が引き受けている。六蔵とパウリスタ(日東珈琲〈株〉)との縁はこのときに始まったようである。
 1939年(昭和14年)に第2次世界大戦が始まり、1940年(昭和15年)12月にはブラジルコーヒー宣伝本部は解散することになる。さらに1941年(昭和16年)に日本は第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入している。この年に六蔵は帝国栄養食品(株)を設立している。栄養食品やチコリーによる代用コーヒーの研究開発をしている。1945年(昭和20年)8月に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終戦になり、1947年(昭和22年)には帝国栄養食品(株)を解散している。                              

        平成20年2月20日(記)衛藤正徳

参考文献

日本コーヒー史(全日本コーヒー商工組合連合会編集)

銀座の灯その八 井筒一黄著(東京名物昭和44年早春号

2005.11.1
衛藤六蔵物語 その9 「旧サントス・コーヒー取引所の今」
 2005年10月に私は念願の旧サントス・コーヒー取引所(BOLSA DE CAFE)を訪問した。旧サントス・コーヒー取引所(BOLSA DE CAFE)は1922年に建設された建物である。現在はコーヒー博物館になっている。  ここは1929年から1931年まで私の父・六蔵はコーヒーの勉強に励み、コーヒー鑑定士を取得したところである。
 私の訪問はそれから70年、正確には約76年〜78年経過している。BOLSA DE CAFEの建物は当時の写真(前章参照)でみていたので、ある程度分かっていたが、実物の建物を一度みておきたいと思っていた。 実際に本物の建物を見たとき、正面の外観は写真とおなじだと思ったが、その大きさと迫力に圧倒された。写真以上に外観も内装も豪華であった。六蔵はこういうところで勉強したのか思い、感無量になった。
 下記の写真は左からサントス港付近、旧サントスコーヒー取引所(BOLSA DE CAFE/ボルサ・ジ・カフェ)の時計塔、同正門、同取引室、同鑑定室。

2004.7.23
衛藤六蔵物語 その8 「ブラジル時代」(1928年〜1933年)
 衛藤六蔵が渡伯したのは1928年(昭和3年)12月である。六蔵が25歳のときである。渡伯する前の六蔵は水産講習所を退所後、日本缶詰協会(社団法人)の仕事をしていた。この当時のブラジルはというと、1924年にサンパウロ州コーヒー院が創設され、25年から業務を開始している。1927年にはコーヒー伝来200周年を迎えている。1927/28年はコーヒーの大豊作。1929年から世界大恐慌がおこっている。このころはブラジルのコーヒー事業がコーヒーの生産過剰、価格の暴落などで転換期を迎えていた時期である。
 
 衛藤六蔵の履歴書には1928年(昭和3年)12月、サンパウロ総領事館領事「川西豊蔵」(敬称略)に随行して渡伯したとある。サンパウロ領事の川西豊蔵の重要な任務としてコーヒーがあったものとおもわれる。六蔵は川西豊蔵とは同郷で、懇意にしていたこともあり、随行することになったのであろう。川西氏の奥様は「縫」という方である。六蔵は川西のママと呼び、敬愛していた。私も日本で何回かお会いしたことがある。明るく、さばけた方であったのを思い出す。

 六蔵がブラジルに遊学していた期間は1928年(昭和3年)から1933年(昭和8年)にかけての5年間である。渡伯した翌年の1929年にサンパウロ総領事館の推薦により、ブラジル国立サントス市珈琲取引所内コーヒー鑑定室に研究生として入所した。1931年(昭和6年)に珈琲鑑定士の資格を得ている。六蔵は珈琲鑑定士のことを珈琲格付鑑定員と書いている。当時のブラジルでは大変権威があった。1932年(昭和7年)にはサンパウロ州政府珈琲技術局の研究生にもなっている。同年11月にはブラジルコーヒー国家評議会の珈琲格付鑑定員講習会を終了して、在伯邦人の珈琲の鑑定および委託販売業務の仕事に従事した。

 六蔵がコーヒーの勉強に励んでいる1930年ころの写真(下記)がある。左から、当時のブラジル・サントス港、サントス珈琲取引所(BOLSA DE CAFE/ボルサ・ジ・カフェ)、珈琲取引の様子、六蔵の珈琲鑑定の様子、珈琲の積荷をみることができる。
(参考資料:衛藤六蔵自筆の履歴書、衛藤六蔵撮影の写真、ユーカーズ著オール・アバウト・コーヒー)

2008.2.13


衛藤六蔵物語 その7 「缶詰協会時代」(1924年〜1928年)

 水産講習所(現東京水産大学)を1924年(大正13年)に退所した六蔵は缶詰普及協会および日本缶詰協会に勤務する。蟹工船が当時花形の職業であった。当時、友人の酒井啓彰と坂本兼次が日露漁業に勤務していた。酒井啓彰さんと坂本兼次は六蔵が蟹工船に乗って働いていたと「衛藤六蔵君を偲ぶ」で書いている。また六蔵は蟹工船で小林多喜二(作家)と一緒だったと良く話していたがくわしいことは聞いていない。1928年〈昭和3年〉に日本缶詰協会を退職し、川西豊蔵サンパウロ日本総領事館領事に随行して渡伯する。

最後に酒井啓彰と坂本兼次のコーヒーの句を以下に載せる。
「コーヒーのほろにがくして春うれい」「コーヒーと鯉を残して君は逝く」
                                              平成20年2月13日(記)衛藤正徳


2007.8.15
衛藤六蔵物語 その6 「水産講習所時代」(1923年〜1924年)

 六蔵は1923年(大正12年)の春に第29期生として当時越中島にあった東京水産講習所・養殖科の門をくぐった。東京水産講習所は当時の農林省が設立した学校で、現在の東京水産大学の前身である。水産講習所は学費が無料だったので入所したと話したのを記憶している。そのせいかどうかわからないが、多士済々で、優秀な人材が集まっていた。彼らは素晴らしい青春時代を過ごし、生涯の友人となった。この友人達は私の家によく遊びに来て、私にもいろいろな話を聞かせてくれた。いまでも、上野武夫、藤田正,天野政之,稲津栄治、朝倉清見、川崎吾八(敬称略)などの名前が浮かんでくる。六蔵が冥土へ旅立ったとき上野を中心に福水会で「衛藤六蔵君を偲ぶ」という小冊子をつくり、墓前に供えてくれた。この冊子を参考に六蔵物語・水産講習所時代を書くことにする。

 六蔵が東京水産講習所に入所した1923年(大正12年)は関東大震災が起きた年で、六蔵が20歳の時である。1923年(大正12年)8月29日に館山湾でヨット(ユウカンピア)に乗船している写真がある。若々しい男の姿である。東京水産講習所では養殖科の校外実習だけでなく、通常の勉強も良くしたようだ。稲津は「机に向かって勉強する輩は名物の蚊に悩まされた。隣床の衛藤君、前記、代物を引き出して、これを防具に勉強した姿が眼に浮かぶ」と書いている。また、酒も良く飲み、小淵は「蛍雪飲酔して親交を深む。」と記している。
 また上野は「衛藤君は、その飄々とした風貌の示すように、進退の決断、頭の切り替えが早く、変わり身は変幻自在ともいうべきものがあった。」が、「人生のスタートを切った水産との結びつきは、彼の心に消し去ることの出来ない想い出と印象を刻み込み、水産との関連は生涯絶えることがなかった。」と書いている。そして「飄々と雲に紛れぬ秋の蝶」と句で表現した。
 
 東京水産講習所の時代は六蔵が青春を謳歌し、多くの友人を得た時代であった。東京水産講習所を退所したのは1924年(大正13年)9月である。東京水産講習所に在学していた期間は1年5ヶ月である。退所した理由はさだかでない。退所後すぐに缶詰協会の仕事に就いている。さらに、1927年(昭和2年)4月から社団法人日本缶詰協会に勤務している。その後、1928年(昭和3年)に渡伯することになる。
平成19年8月15日 衛藤正徳(記)


2006.12.26.
衛藤六蔵物語 その5 「子供時代」(1903年〜1923年)

六蔵は大分県竹田市寺町の衛藤家で1903年(明治36年)に衛藤敦夫とミツの六男二女の六男として産まれた。これで納めるという意味で六蔵と名づけられたと聞かされたことがある。なお、簡単に全員の名前を紹介しますと、長姉の千代(医師衛藤恰の妻)、次女の八千代(医師加藤武の妻)、長男の一比古(歯医者)、次男の次比古(広瀬神社の神主)、三男の三比古(建築家)、四男の四郎(写真屋)、五男の五郎(土建屋)、六男の六蔵(コーヒー屋)である。コーヒー史でみると、この頃、パウリスタの創始者の水野竜が1,904年((明治37年)に皇国移民会社を設立して、海外を志している。1908年(明治41年)には最初のブラジル移民が「笠
戸丸」で出発している。
 寺町の衛藤家は47代信秀の3男信親が起こした家である。六蔵の父・敦夫は1854年〈安政6年〉に生まれ、21歳の時、広瀬家から寺町の衛藤家の養子に迎えられ、家を継いだ。祖父・敦夫の兄は広瀬重武といい、軍神(私はあまりこの言葉は好きではないが)と呼ばれ、日露戦争で戦死した海軍中佐広瀬武夫の父にあたる。広瀬武夫と父・六蔵はいとこになる。ついでだが広瀬武夫のお墓は竹田の茶屋の辻にあり、いまでも花が絶えない。祖父・敦夫は明治11年、19歳の時に上京して、東京帝国大学医科選科(東大医学部の前進)に入学し、西洋医学を学んだ。竹田市寺町で医院を開業した。西洋医学は当時まだ珍しく、珍しがられたという。竹田というところは南画家の巨匠「田能村竹田」が出たところで書画が盛んである。祖父も絵をたしなみ、半仙と称した。祖母のミツは穏やかで鷹揚なような人だったと六蔵の兄の池田三比古は記している。祖父・敦夫は1910年(明治43年)に56歳で急死した。六蔵が7歳の時である。祖母のミツは長生きして、昭和26年に亡くなった。
(参考文献:加藤竺子著My Life Work、藤田三平(池田三比古)著裾野、日東珈琲株式会社編パウリスタコーヒー物語)

 六蔵は一番最後の男の子ということで敦夫にかわいがられた。祖父と写った写真からもわかる。六蔵は子供のころかなり腕白であったらしい。ある知人の方は子供の時父が怖くて、父が近くに来ると門の中に隠れ、いなくなると門から覗いていたということである。また、六蔵は付近の稲葉川で泳ぐの好きで、河童のように毎日泳いでいたと自慢していた。一緒に泳いだことがあるが、とても敵わなかった。釣りも得意であった。父は釣りの手ほどきもしてくれた。時々近くの川で一緒に釣りをして楽しんだ。いい思い出として残っている。また海釣りでおおきなカレイを2匹釣って帰ってきたこともある。学校では剣道をやっていた。そら撃剣だといってたまに手刀でふざけることもあった。しかし強かったとは聞いた覚えがない。

六蔵は1914年〈大正3年)、11歳の時に養子になり、恵良春の衛藤家を継いで55代になった。第1次大戦勃発の年である。恵良原の衛藤家は本家筋にあたる。44代の衛藤信隆(法名円信、1703年、宝永2年没)の時に恵良原(えらはると読む)に移り住み、恵良原を切り拓いて千石庄屋となった。代々藩医もしていた。49代の衛藤賢儒(1763〜1822年)は南画家の田能村竹田と親交があり、別名田能村賢儒ともいう。一時期、田能村家に後見人として養子にはいったためである。継いだ墓地は広く、恵良春衛藤家の初代の信隆(僧名円信)をはじめ、代々の墓がある。継いだものは家名と系図と墓地とチャンチャン坊主の絵だけだったと言っていた。以前は「墓地に田能村竹田から贈られた灯篭があった」と叔母の加藤八千代からきいたことあるが、実際に見たことはない。(参考文献:財団法人田能村竹田顕彰会編田能村竹田年譜)

 六蔵は1917年(大正6年)、14歳の時に一度東京に出ている。ここでは東京の世田谷の川西豊蔵氏宅で厄介になっていた。後年、六蔵は川西豊蔵氏の随行員として渡泊することになる。1年後の1918年(大正7年)に竹田へ戻り、竹田中学に転校している。この年は第1次大戦終了の年で、ブラジルでは大霜害が発生している。1921年(大正10年)に竹田中学校を卒業した。18歳の時である。卒業後は満州で満州奉天南満中学の化学教室助手になった。ここで2年間勤務した。六蔵がコーヒーの成分や化学を詳しく理解し、コーヒー・エキスを発明したりできたのはこの助手時代に化学を勉強し、コーヒーを科学的に考える基礎を養ったからであろう。
(次に続く)


祖父・敦夫と
父・六蔵

2004.1.30
衛藤六蔵物語 その4 「豊後竹田の町と食べ物」
 別府から豊肥線に乗っていて、トンネルを抜けると、突然として「豊後竹田駅」があらわれ、駅に着くと滝廉太郎の「荒城の月」が流れてくる。竹田という町は盆地である。山紫水明だが、夏はまことに暑く、冬は寒い。阿蘇山の外輪山のところに位置していて、「レンコン町」と言われるくらい、トンネルの多い町である。
 中川氏の居城であった「岡城」を中心とした城下町であった。岡城は遠くから見ると牛が寝ているようにみえることからで別名「臥牛城」とも呼ばれる。谷底まで続く、「ねずみ返し」と言われる、堅固でスキのない石垣だけが今に残っている。城址公園になっている岡城址からの眺めは素晴らしく、九重山や祖母・傾きの山々が目の前にそびえるように望まれる。春の季節には桜がまことに美しい。
 また、竹田は小京都とよばれ、南画の「田能村 竹田」に代表される文化的にもすぐれた人材がでている。彫刻の「朝倉文夫」もその1人である。(続く)
 竹田には本当にうまいものがある。水・カボス・とうふ・頭料理・だんご汁・とろろ汁・ごまうどん・饅頭などなど。まず、味の原点となる「水」である。この水は阿蘇の溶岩台地の伏流水である。そして竹田特産の「カボス」である。漢字で香保酢とか香母酢と書かれる。ホンノリとした香りと上品な酢の味が特徴で、ふぐなどのさしみ、つけもの、さんまなどの焼き魚などなど、なんでもよく合う。また魚を酢でしめるときに使うと味が格段によくなる。
 美味しい水でつくられた「とうふ」もじつにうまい。さらに竹田名物の「頭料理」。クエという魚の頭の部分を湯引きして、カボス醤油で食べる珍しい料理である。 
 竹田特産のしいたけを使った「だんご汁」は家庭の味である。だんご汁は竹田だけでなく、大分の郷土料理である。衛藤家のだんご汁はじつにシンプル。しいたけと手で薄くのばしただんごの具がはいった、薄い味噌味の御つゆ。鰹節とねぎとごま醤油をかけてたべる。あきのこない家の味。
 自然薯の「とろろ汁」もやはり家庭の味。やまいもを摺り、こぶと・しいたけ・鰹節でとっただしで味つけする。干し柿を一緒に摺り込むとなんともいえない甘みがでる。
 なんといっても絶品はおばのつくっていた「ごまうどん」。竹田の太めのうどんをゆで、よく摺ったごまでつくるごま醤油たれと九州の細ねぎと鰹節をかけてたべる。竹田に行ったときにはかならず食べさせてもらった、思い出の一品である。
 最後に、お菓子であるが、庶民の味ははらふと」や「酒饅頭」のような饅頭。お茶のお菓子は「荒城の月」と「三笠野」である。この中でコーヒーや紅茶に合うものを1つ挙げるなら「荒城の月」だ。コーヒーは軽めの味のものがよく合う。


豊後竹田市岡城址
別名「臥牛城」

2003.11.12
衛藤六蔵物語 その3 「衛藤六蔵の故郷は豊後竹田」
 衛藤六蔵は明治36年に大分県竹田市寺町で父「敦夫」母「ミツ」の六男二女の六男として生まれた。
 竹田市は通常豊後竹田とよばれ、岡城(別名臥牛城)を中心とした城下町で山紫水明の美しい町です。
 衛藤六蔵の生家は旧岡藩のお客屋敷だったところである。現在は竹田市の所有でお客屋という喫茶所になっている。           
 また竹田市は「滝 廉太郎の荒城の月」のゆかりの地として有名です。今年は滝 廉太郎の没後100年ということで、さまざまなイベントや行事がおこなわれて、その様子がNHK教育テレビ(3チャンネル)で先日(11月2日)放映されました。ご覧になられた方もおられるでしょう。
 私も小さい時から父・六蔵に連れられてよく行きました。訪竹した回数はすでに20回をこえるでしょうか。ここには美しい景色だけでなく、美味し水と食べ物があります。父・六蔵の鼻と舌が珈琲鑑定士を取得できるほど鋭敏だったのは竹田の水と料理でみがかれたからではないかと思っています。次回は竹田の町と食べ物を詳しく紹介します。

衛藤六蔵の生家。
旧岡藩のお客屋。
現在の所有者は竹田市。


2007.7.11
衛藤六蔵物語 その2 「衛藤六蔵とマジックビーン」
「衛藤六蔵とマジックビーン」                          衛藤正徳(キングスコーヒー代表)

今、自分が珈琲屋のはしくれとして父と同じ道を歩いていると、父のすごさがあらためてわかる。衛藤六蔵の歩んだ珈琲人生を紹介したい。
衛藤六蔵は滝廉太郎の荒城の月で有名な大分県竹田市に生を受けた。25歳のときにブラジルに渡り、サントス珈琲取引所で珈琲の勉強と研究を行った。昭和6年に日本人ではじめてブラジル政府公認のコーヒー格付鑑定士の資格を取得した。
昭和8年にブラジル政府のブラジル珈琲宣伝本部が日本に設立されると同時に、技術担当として参画し、ブラジル珈琲の技術指導にあたった。
不幸な戦争で日本のコーヒー文化は大きく後退したが、終戦後の昭和22年にセスト珈琲研究所を自ら立ち上げ、珈琲の研究・普及に努めた。
その中で特筆される仕事には、チコリを利用したコーヒーの代替品、コーヒー糖というインスタントコーヒー、ポケッティという簡易コーヒードリッパーなどの研究開発がある。これらは必ずしも成功したとは言い難いが・・・。
一方、ブラジル珈琲の宣伝のために開いたセスト珈琲店は大評判であった。このことについては、東京名物(昭和44年早春号)の中の「銀座の灯その八」(井筒一廣氏作)に詳しいので、以下にその一部を抜粋して記載させていただく。
「銀座にあった珈琲店のなかで、この話こそはぜひ残しておきたいと思う。それは筆者が過ぎ去った青春の断片を思い浮かべ、時がたった今日も美しい夢がみられるからだ。
前述したアッスムソンのブラジル珈琲で、活躍した人々のなかに衛藤六蔵のあったことにふれたが、彼は若いころブラジルに渡って、珈琲の研究に従事し、日本に於けるブラジル政府公認のコーヒー鑑定者としての資格を得ていた。
帰日後アッスムソンのもとで、技術部専任者として、本格的なブラジル珈琲の技術指導に当たっていたが、アッスムソンが帰国すると、その後銀座の7丁目の裏角で、セストという珈琲専門の喫茶店を開いた。セストは六蔵の六という意のポルトガル語である。
三米ほどの間口で、奥は巾の狭いカウンターでいっぱいになるほどの小さな構えであったが、出す珈琲は、おそらく今日では味わうことの出来ぬほど本格的なブラジル珈琲であった。
彼がブラジルから帰国するとき持ち帰ってきた珈琲沸器は、一種のエスプレッソ方式の基本形で、サントスを細かに挽いた粉に、その沸器から出る強い蒸気を吹き込むと、点滴する香りの高い強く濃い珈琲が出来る。それを小さなカップにうけて、ミルクを加えず甜菜糖を入れて供されるもので、芳香の立った一杯の珈琲は、よくその店の表にまで馥郁たる香を発散し、その味の旨さは他に比類するものがなかった。炎熱の国南米の空気がさながら辺に漂うようであり、この珈琲こそ一杯は憩のため、二杯は歓楽の為、三杯目には剣のためというブラジルにある格言のとおり、強烈なものであった。」
(以上東京名物(昭和44年早春号)「銀座の灯その八」(井筒一廣氏作)から抜粋)
昭和39年には衛藤六蔵は日東珈琲(株)などの協力のもと、(有)パウリスタを設立し、京王デパートに低価格・高回転型のコーヒーショップ「パウリスタ」を開いた。「パウリスタ」はたいへん繁盛したが、衛藤六蔵の珈琲人生をかざる最後の仕事となった。
当時学生だった私もアルバイトの重要な一員として手伝った。今振り返れば、ここが私の珈琲人生の実質的なスタートになった。
衛藤六蔵は魔法のように変化するコーヒー豆をつねづねマジックビーン(魔法の豆)と呼んで心から愛し、研究していた。
衛藤六蔵は商売一筋というより、率直さを好み、技術者の良心を大切にした珈琲人だった。
衛藤六蔵に最高のコーヒーは何かと尋ねたことがあるが、その答えは「最高のコーヒーは後味の良いコーヒーだよ」であった。

「(日本コーヒー文化学会ニュース第26号「衛藤六蔵とマジックビーン」から転載

2002.10.1


衛藤六蔵物語 その1 「はじめに」
 衛藤六蔵は1931年(昭和6年)にブラジル政府から珈琲鑑定士の資格を授与された日本人で、珈琲をマジックビーンと呼び、愛した珈琲人である。その足跡をたどり、日本のコーヒー史の表面にあらわれないが、ひょうひょうとして歩いた珈琲人生を紹介してみたい。                                                                         衛藤 正徳(記)