六蔵がブラジルから帰国したのは1933年(昭和8年)11月である。この時の様子を前述の酒井啓彰と坂本兼次は「大きなポスターのようなコーヒー鑑定人の免状を貰って帰国し得意だった」と書いている。
六蔵が帰国する9ヶ月前の1932年(昭和7年)8月にはブラジルコーヒー宣伝販売本部が開設され、A.A.アッス
ムソンによる日本におけるブラジルコーヒーの宣伝活動(第4回目)が開始されている。帰国した六蔵は1934年(昭和9年)四月からブラジルコーヒー宣伝販売本部(技術部門)に勤務している。ブラジルコーヒー宣伝販売本部開設と六蔵の帰国とは無縁ではない。
ブラジルコーヒー宣伝販売本部のことは銀座の灯その八(井筒一黄著)に詳しく書かれている。その内容を簡単に記すと、アッスムソンが日本に来た目的は上述のようにブラジルコーヒーの拡販である。ブラジルコーヒー宣伝販売本部が開設ころはパウリスタも往年の勢いが衰えた時期でコーヒーの需要が伸び悩んでいた時期である。日本人のスタッフには増田和一、大道久雄、衛藤六蔵,土屋幸雄、そして優秀な女性陣がいる。また画期的な宣伝方法が採用されている。藤田嗣冶画伯の大壁画(大地)を壁面に描いたり、容姿端麗で珈琲の知識を教育された良家の子女を第一線に送り出すなどなど。藤田嗣冶画伯の大壁画(大地)は藤田組の手によってブラジルから36年ぶりに日本に戻り、昭和46年2月に日本橋三越本店で公開されている。
また日本人のスタッフはブラジル珈琲本部アロマ会という会を作っている。筆者も1度か2度くらいアロマ会の人たちにお会いしたことがある。昭和46年正月のブラジル珈琲本部アロマ会員名簿には次の20人の名前が記されている。大道久雄、衛藤六蔵、増田和一、大塚健吉、土や幸夫、関谷四郎、浅海正夫、宮島市太郎,茅野健児,三谷兼雄、一二三亮、柏木園子、松江輝子、三林節子、新保京子、中島千枝子、石沢光沢、鈴木百合子、中村遼子、飯泉貞子(敬称略)である。皆、素晴らしい方々である。またコーヒーの焙煎加工はパウリスタ(長谷川主計)が引き受けている。六蔵とパウリスタ(日東珈琲〈株〉)との縁はこのときに始まったようである。
1939年(昭和14年)に第2次世界大戦が始まり、1940年(昭和15年)12月にはブラジルコーヒー宣伝本部は解散することになる。さらに1941年(昭和16年)に日本は第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入している。この年に六蔵は帝国栄養食品(株)を設立している。栄養食品やチコリーによる代用コーヒーの研究開発をしている。1945年(昭和20年)8月に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終戦になり、1947年(昭和22年)には帝国栄養食品(株)を解散している。
平成20年2月20日(記)衛藤正徳
参考文献
日本コーヒー史(全日本コーヒー商工組合連合会編集)
銀座の灯その八 井筒一黄著(東京名物昭和44年早春号 |